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2017年04月07日09:38

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ユダヤ34〜ハプスブルグ家の栄華とユダヤ人

●ハプスブルグ家の栄華とユダヤ人

 キリスト教社会で差別と迫害を受けるユダヤ人が、自らの地位を高めていったのは、類まれな経済的能力による。ユダヤ人は、14〜15世紀にはイタリア諸都市やスペイン、ポルトガルの繁栄に貢献した。イベリア半島からは追放されたが、ユダヤ人は商業・貿易・金融の知識と国際的なネットワークを持ち、ある土地で追放されると他の土地へ移り、そこで能力を発揮した。
 16世紀末のヨーロッパでは、教会の権力と影響力は衰え、国王の権威が増大した。国王を中心に近代主権国家が形成される過程で、官僚制と財政制度が発達した。そのなかで実務能力に長けたユダヤ人は歓迎されるようになった。ヴェネツイア、トスカナ、フランス、アムステルダム、フランクフルト等で、ユダヤ人は認可や特権や保護状を与えられた。かつてユダヤ人を追い出したドイツ語圏の町や公国も再び彼らを受け入れた。
 神聖ローマ帝国では、1577年にハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世が、ユダヤ人に特権を与える勅許状を出した。ユダヤ人の財務能力が有益だと考えたからである。彼は大商人マルクス・マイゼルを最初の宮廷ユダヤ人として迎え入れた。
 マイゼルは、収集家としても知られるルドルフ2世に美術品や科学的機器を提供していた。だが、最大の役割は、イスラーム文明のオスマン帝国との戦争に必要な資金の調達だった。その見返りに皇帝は、マイゼルに宝石などの担保品だけでなく、約束手形や土地を抵当に金を貸すことを託した。ポール・ジョンソンは、「利口で信心深いユダヤ人と利己的で好き放題をするハプスブルク家の人間が手を結べば、必然的に互いに利用し合って私腹を肥やす関係となった」と書いている。
 先に宗教改革について書いたが、西方キリスト教の新教と旧教の争いは、ドイツの諸侯や周辺諸国を巻き込んで、一大宗教戦争に発展した。それが、1618年に始まるドイツ30年戦争である。皇帝やドイツの諸侯は莫大な戦費を必要とした。彼らはユダヤ人から資金の提供を受けなければ、戦争ができなかった。とりわけハプスブルク家は、戦争の開始直後に一度、崩壊寸前となった。この時、同家が権力を失わずにすんだのは、ユダヤ人ヤコブ・バッセヴィが資金調達に奔走したことによる。カトリック側の王や諸侯もプロテスタント側の王や諸侯もともに、ユダヤ人から資金の提供を受け、引き換えに居住許可を乱発した。資金だけでなく、軍が必要とする食糧やかいばの調達も、ユダヤ人が行った。これには、東欧におけるユダヤ人の食糧供給網が役立った。
 30年戦争でドイツは荒廃した。だが、その間に中央ヨーロッパのユダヤ人社会は着実に成長を遂げた。そして戦後に誕生した多数の小国家の領主たちに金銭や物資を供給する裕福なユダヤ人が出現した。彼らは諸邦の宮廷にまず財務官あるいは財政顧問として入り、その後、他の分野にまで関与し、専制君主や政府に欠かせない存在となった。中には事実上の大臣として君主に仕え、政治力と経済力を宮殿に集めるのを助け、君主や貴族とともに利益を享受するユダヤ人もいた。こうして、ドイツ30年戦争をきっかけに、ユダヤ人は国家財政と軍事物資の供給に大々的に関与することになった。
 17世紀後半から18世紀初めにかけて、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家は、ブルボン朝のフランスと権勢を競った。当時大陸を軍事的に制圧していたルイ14世のフランスに対してイギリス、オランダ等が大連合を組んで戦い、これを破った。英蘭側では、主にユダヤ人グループが資金や食料を調達した。この際、ハプスブルク家では、ザームエル・オッペンハイマーがドイツとオランダを結ぶユダヤ人資本家の一大ネットワークを駆使して資金調達に活躍した。
 オスマン帝国がヨーロッパに進軍しようとした時、ハプスブルク家が抗戦してこれを食い止めた。このときオッペンハイマーは、オーストリア軍への物資供給を請け負った。また1683年にウィーンが包囲され、皇帝が逃げ出した時に町を救ったのも、彼だった。オッペンハイマーは、オーストリアのハプスブルグ家に5500万グルデン以上の信用貸しをしていた。ザームエルの死はオーストリア国家と帝室を破産に瀕ししめた。
 宮廷ユダヤ人は16世紀のマイゼルを先駆とし、西欧で資本主義が発達するにつれ、イギリス、ドイツ、オーストリア、デンマーク等で活躍を続けた。彼らは財力を利用して政府や君主に貸付をし、軍のために武器を供給し、また貿易や産業を促進するのに貢献した。そして、多くの国でユダヤ人が政府の財政を支配するようになり、その影響力は1914年まで続いた。
 ところで、ヨーロッパ文明では、近代化の進展とともにいわゆる人権が発達した。一般に普遍的・生得的とされる人権は、諸国家の国民の権利として歴史的・社会的・文化的に発達した。そうした意味での人権が確保・拡大されるに伴って、ユダヤ人の自由と権利も拡大した。それは、こうしたユダヤ人の財政・戦争等への関与の延長線上に実現したものである。人権発達の歴史は、一面において、ユダヤ人が自らの自由と権利の拡大を推進してきた歴史でもある。その過程をとらえるには、16世紀のオランダ、17世紀のイギリス、18世紀のアメリカ・フランス等における展開をたどる必要がある。これを順に見てみよう。

●オランダのエルサレム

 15世紀末にスペイン、ポルトガルから追放されたユダヤ人の一部は、オランダに向かった。
 現在のオランダ・ベルギーのあたりは、ネーデルラントと呼ばれる。この地域は、中世以来、北海・バルト海交易による商業と毛織物業で繁栄していた。商業を通じたイタリア・ルネサンスの影響で、15世紀から新しい文化が花開き、北方ルネッサンスの中心地のひとつとなっていた。
 1579年、オランダはユトレヒト同盟によってスペインから独立した。カトリック教会が支配するスペインから、プロテスタントを主とする国家、オランダが誕生した。宗教改革によって、民族独立、宗派独立が起ったのである。
 スペインとともに世界を二分したポルトガルは、1580年にスペインに併合された。すると、それまで寛容だったポルトガルの異端尋問所は、一転して隠れユダヤ教徒を厳しく追及し始めた。そのため、ポルトガルの新キリスト教徒やマラノの多くがアムステルダムに向かった。1588年には、スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に大敗し、スペイン王国の栄光に陰りが出た。ポルトガルだけでなくスペインのマラノもアムステルダムへの移住の流れに加わった。ユダヤ人が出国した後のスペイン・ポルトガルはやがて衰微していき、ユダヤ人が移住したオランダが興隆することになった。
 ユダヤ人はヨーロッパ各地で異教徒として蔑視や敵視をされながらも、経済的にはすでに諸国で欠かせない存在となっていた。彼らが最初に信教の自由を中核とする自由と権利を確保したのは、オランダにおいてだった。
 16〜17世紀にかけて、ヨーロッパで最も宗教に寛容で、信教の自由が保障されていたのが、オランダだった。16世紀最大のヒューマニストといわれたデジデリウス・エラスムスは、オランダで「信仰に自由を」と主張した。また当時は、ヤーコブス・アルミニウス等の自由主義派も信教の自由を主張していた。1615年、国際法の祖といわれる法学者フーゴー・グロチウスの助言によって、オランダの法廷はマラノをヘブライ族の一員として認め、アムステルダム居住を正式に許可した。
 オランダの主要部は、絶対核家族が支配的で、自由主義的な家族型的価値観を持ち、早くからユダヤ人にも寛容だった。オランダのプロテスタントは、カルヴァン派が多数を占める。カルヴァン派は、キリスト教でありながら、利潤の追求を認めるので、商工業者に信者が多かった。
 ユダヤ人が多数移住した当時のオランダは、貿易で国を興そうとしていた。そのことは、商業を得意とするユダヤ人には都合がよかった。ユダヤ人は彼らの持つ商業的な知識や国際的な人脈ゆえに歓迎され、アムステルダムを中心としてオランダの経済発展に大いに寄与した。
 ユダヤ人は、アムステルダムで銀行業務を発展させた。アムステルダム銀行は近代資本主義の銀行のもとになった。またユダヤ人は株式取引所、東インド会社、西インド会社等を設立した。東インド会社の株は、ユダヤ人が4分の1以上を保有していた。
 アムステルダムは、17世紀に最高の繁栄を極めた。多くのユダヤ人が集まって豊かな生活を繰り広げたので、「オランダのエルサレム」と呼ばれた。
 ユダヤ商人は、南米のギアナ、キュラソー、ブラジル等まで出かけて、オランダに富をもたらした。また、ブラジルから北米へのユダヤ人の最初の移住が行われた。ニューヨークは、イギリスから多数のピューリタンが渡って故郷の土地の名を変える前には、ニューアムステルダムと呼ばれていた。
 オランダでユダヤ人の自由と権利は拡大された。さらにユダヤ人の地位改善が進んだのは、17〜18世紀にイギリス、アメリカ、フランスで相次いだ市民革命による。

 次回に続く。

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