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2017年03月31日11:55

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時代を越えて(130) 原田伊織「明治維新という過ち」

 時代を越えて(130) 原田伊織「(改訂増補版)明治維新という過ち −日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリストー」毎日ワンズ2015
 著者は1946年生、広告・編集制作の分野で活動、作家

 本書の主旨は表題につきるといってよい。明治維新によって近代が始まった一種のブルジョワ革命だったとする定説を真っ向から否定するものであり、定説の逆を張っているだけでないかという面も多いのであるが、私の持っていた疑問点と一致するところがあるので、その部分を重点的に見ておきたい。
 私が習った日本史では、江戸時代は身分制度にしばられ、江戸や大坂では元禄文化や浮世絵、越後屋の正札現金値引きなしもあったが、農民は重税にあえいで一揆が頻発した。後から思えばマルクスの階級闘争史観だったからだが、それが近年では江戸時代が再評価されるようになった。
 それでも、明治維新を過ちだったという歴史学者はいないのだが。
 著者は、我が国が「明治維新という過ち」を犯さなかったら、・・・徳川政権が江戸期の遺産をうまく生かして変質し、国民皆兵で中立を守るスイスか自立志向の強い北欧三国のような国になっていたのではないかと、する。

 高杉の「奇兵隊」のことを、戦闘行為を武士の専権でなくした画期的な戦闘部隊と評価しているが・・・実態は犯罪者など「宗門人別改帳」から外されたやくざのようなものが多かったのである。
 ☆海風:明治維新後に奇兵隊の反乱が起きている。なぜ、維新の功労者を新たに作る国軍で処遇しなかったのか。奇兵隊を解散するだけで、隊員を失業させてしまったのか疑問だった。著者の主張するように、奇兵隊の実体がやくざ者なら、確かに上官の命令や規律を絶対とする近代の軍隊に入れるわけにはいかなかっただろう。
 建武年間の三条河原の落書きに、「このごろ都にはやるもの、夜討、強盗、偽綸旨・・・」などのように秩序が崩壊し、「偽綸旨」が乱発されたことを伝えているが、これは、王政復古前後の状況に似ている。
 応仁の乱では、戦いは集団戦になり大勢の足軽が動員されたが、彼らは規律に従わず略奪や暴行をほしいままにしたとされる。奇兵隊にもこういう側面があったのだろう。もし、高杉晋作が生きていれば奇兵隊は処遇されたかもしれないが。
 
 長州藩では長井雅楽(うた)が主唱して、外国人排斥でなく、積極的な通商によって国力を蓄えるとする「航海遠略策」を藩の方針としていたのだが、文久三年(1863)に桂小五郎、久坂玄瑞など吉田松陰系の過激派が抵抗して長井を切腹させてしまった。この事件は、井伊大老を暗殺した「桜田門外の変」に連動して起こされたものである。
 長州藩主は「そうせい候」とあだ名されていたが、明治になってから「そうしておかないと危険だった」と述懐したとのことである。
 ☆海風:なぜ、明治維新後の政策と同じ「航海遠略策」を否定したのか、昔見た「大河ドラマ」で、高杉晋作は、疑問に思った家来の伊藤俊輔(博文)の問いに答えて、「まだ、それを言うのは早いからだ」と答えていた。つまりは、同じ政策を持つ者の間の権力争いだったことになる。
 考えてみれば、「尊皇攘夷」派というよりは、「反幕府」派と言った方が、その実態を正確に表している。彼らの「尊皇」は隠れ蓑だし、「攘夷」は幕府を困らせ混乱させることを目的としていた。「航海遠略策」には、幕府から権力を奪うという革命的要素がなかったことが問題だったのだろう。

 安政5年(1858)、日米修好条約が締結されると、松陰は老中首座・間部詮勝の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。先に、松陰は、大老・井伊直弼の暗殺も主張していて、藩は「妄動してやまざれば投獄あるのみ」と警告していたのである。
 翌安政6年、江戸に送致され、斬首された。満二十九歳だった。
☆海風:吉田松陰は、陽明学者で「講孟余話」という著書がある。彼の依拠した陽明学は「知行合一」を思想の根本に置いていたので、過激な行動を起こしがちだった。大塩の乱を起こした大坂町奉行所与力の大塩平八郎もそうだったし、三島由紀夫も同様だった。 

 松陰の外交思想
 北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満洲、台湾、フィリッピンを領有するべきだというのである。
 恐ろしいことに、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り軍事進出して国家を滅ぼした。
 ☆海風:これを弁護すれば、当時、北からロシア、東からアメリカ、南からイギリスやフランスが日本に開国を要求していたが、これは軍艦を背景にした要求なので、一歩間違えば植民地化される恐れがあったのである。対抗するために、逆に彼らの足場になっている周辺諸国を領有する、という発想は、むしろ自然なものだった。そもそも、当時の日本人はスイスを知らないし、知っていたとしても、周囲が海でどこからでも軍艦が来て上陸可能な日本をスイス方式で守れるのか疑問である。スイスはアルプス山中にあって、峠道を守れば防衛可能なのである。大軍で一挙に侵攻されるという心配はない。

 司馬遼太郎は、日露戦争から後の、大東亜戦争の敗戦までの四十年間を、日本史として「連続性を持たない時代」と規定し、ここではそれを「モノ」「鬼胎」と呼んでいる。・・・なぜなのか。勝手な言い方である。
 ☆海風:司馬遼太郎が見ていたことは、そして定説の見方も同じだと思うが、四民平等とし、帝大の選抜で政府の要職につけることを可能にし、漱石「三四郎」や司馬遼太郎「坂の上の雲」に描いたように、各地方の秀才を東京に集めたことである。「五箇条の御誓文」にある「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」の宣言というか公約が重要だったと思う。
 昭和戦前期は、この、それぞれの志を遂げ、でなく、国家方針に縛られることになったのだから。

 阿部正弘政権による実質的な開国
 水戸藩主だった徳川斉昭はペリーを暗殺すれば攘夷が成功するなどと言って幕府の足を引っ張っていた。その斉昭と彼が抜擢した藤田東湖こそ、長州テロリストにとっては「神様」のような存在である。
 ☆海風:世界情勢に無知なものが国家権力の遂行を混乱させたこと、昭和戦前期における軍部と同様ではなかろうか。特に、陸軍の幹部たちはアメリカの生産力に無知だったし、それを「総力戦研究所」がシミュレーションで提示しても理解できなかった。東条などの卒業した陸軍大学は東大以上の秀才を集めていたのだが。

 そして、老中首座・阿部正弘は、斉昭を「海防参与」という役職に付けて幕政にコミットさせてしまった。中へ入れればおとなしくなると考えたようだが、斉昭の程度の低さ・リアリズムのないことは阿部の想像を超えていたのである。
 一方、阿部正弘は人材登用と開国決断へのステップにおいて打った手には見るべきものがあった。
 蕃書調所・・・世界情勢収集の最前線となった役所
 講武所(陸軍学校)、海軍伝習所(海軍学校)
 昌平坂学問所の成績によって、官僚を登用したこと
 ☆海風:さて、最後に阿部正弘であるが、彼は備後福山藩主だった。私が長く住んでいた福山市の偉人なのだが、私のいた当時、日本を開国に導いた幕末の偉人というように表だって顕彰されていなかったと思う。福山城の天守閣が博物館になっていて、そこに正装した阿部正弘の等身大の像があって、彼の業績が説明されてはいた。しかし、それだけでは物足りないだろう。
 「文明開化」ということで維新の立役者たちはあちこちで、小説や映画で顕彰されている。しかし、彼らの先駆者というべき阿部正弘は一般にはほとんど忘れられてしまった。勝海舟なども阿部正弘の作った長崎海軍伝習所で頭角を現したのだから。弟子の坂本竜馬も同様であった。

 ☆海風:まとめ
 著者は明治維新の志士たちをただのテロリストだったと糾弾するのだが、彼らは権力を握ってからは、版籍奉還や四民平等などの革命的政策によって封建的特権を廃止して、日本を近代国家へ導いたことも事実である。
 著者の明治維新否定論の論拠は、司馬遼太郎説の延長であって、それが昭和維新の運動の原因となって日本を破滅に導いたことにある。
 皇道派の革新将校のしたことは、テロの恐怖で政治家をしばり、陸・海軍の要求を拒否できなくしたことである。その結果、軍は国力以上に肥大し、結果的に、経済発展を軍部に頼らざるを得なくしてしまった。この反作用として、軍部の方は「アメリカに勝てないので開戦できない」と言えなくなってしまい、やるなら石油備蓄のある今しかないと切羽詰まった判断をしてしまった。
 その後押しをしたのが朝日新聞であり、それに煽られた世論だったとの説があるが、私はこれを事実だと思うが、それは朝日の今も変わらぬ革命好きのせいである。この時は、米英などの植民地帝国から東アジアを解放すること、インドなどの独立運動を支援することにあった。戦後は、中国革命へ同調し、今は、国際派リベラルに日本を同調させることであろう。それが、困るのは、遅れてきた帝国主義国の中国の利害と一致していることにある。
 本書の著者の言う日本のスイス化も中国の賛成を得るはずである。
 ということで、江戸時代の再評価の一環のものとしては役に立った。


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