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2017年03月15日09:16

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ユダヤ25〜カトリックが迫害の教義を確立

●カトリックが迫害の教義を確立
 
 十字軍の遠征が繰り返し行なわれるようになると、ヴェネチアなどイタリアの共和国が地中海貿易を独占するようになった。このことは、貿易におけるユダヤ人の地位を低下させた。また、製造業や商業などでは、次第に職能組合であるギルドが支配するようになった。ユダヤ人はこのギルドから通常、排除された。
 北イタリアでは、ユダヤ人の経済状況は幾分恵まれていたが、教皇の力が強まるにつれ、ユダヤ人に対する統制が強化された。教皇はたびたび会議を招集して、ユダヤ人の自由と権利を制限する法令を発布した。その中には、ユダヤ人とキリスト教徒を社会的に隔離しようとするものがあった。1179年に開かれた第3回ラテラノ公会議で、キリスト教徒とユダヤ人の混住を禁じることが決定された。また同じ公会議で、キリスト教徒の間では金銭の貸し借りに金利を取ってはならないという法令が出された。この法令は、ユダヤ人がキリスト教徒に金銭を貸す場合には適用されなかった。そのため、ユダヤ人が他の経済活動から排除されつつある状況では、彼らに残された職業は金貸し業だけになったも同然だった。
 13世紀までには、カトリック教会で、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが確立された。
 『物語ユダヤ人の歴史』の著者レイモンド・シェインドリンによると、ヨーロッパの一般庶民の間に定着していった反ユダヤ的感情の一部は「恐怖感」に根ざしたものだった。「文字も読めず、迷信深い中世の農民たちの目には、不思議な習慣と、奇妙な宗教儀式、それにヘブライ語の祈りを行うユダヤ人は、単に社会的、経済的アウトサイダーというだけでなく、黒魔術を操る異様な集団、悪魔の手先とも映っていたのである。こうした感情は、ユダヤ人は非ユダヤ人、特に子供を殺し、その血を過ぎ越しの祭りの儀式に使うという噂の流布となって現れた」とシェインドリンは書いている。
 12世紀の半ばから、ユダヤ人がキリストの受難を冒涜する儀式を行うために、キリスト教徒の幼子を誘拐し、磔刑にして殺害したという告発が現れた。これを「儀式殺人告発」という。1144年にイギリスのノリッジで初めて発生した後、13世紀には西ヨーロッパ全体に飛び火した。中世後期以後はその舞台をドイツ・東欧へ移した。儀式殺人告発の目的は、実際にはユダヤ人金貸しに負った借金の棒引き、ユダヤ人財産没収のための口実づくりが多かったと見られる。

●中世ユダヤ人の文化的活躍

 12〜13世紀のヨーロッパにおいて、ユダヤ人は迫害を受けながらも、経済的能力を発揮するとともに、文化的な能力を発揮した。古代ギリシャ=ローマ文明の文化的遺産は、ヨーロッパ文明よりイスラーム文明に多く受け継がれていた。ヨーロッパでは、古代の科学や哲学はアラビア語あるいはヘブライ語に翻訳された文献で学ぶしかなかった。アラビア語とヘブライ語のできるユダヤ人学者は、貴重な存在だった。
 スペインは、ユダヤ人学者とキリスト教徒の学者が共存することにより、古代文化の研究や翻訳の中心地となった。ユダヤ人は、ラテン語を解するキリスト教徒とともに各種文献の翻訳に携わった。シェインドリンは、次のように書いている。「ユダヤ人学者がギリシャ語の原典をアラビア語に翻訳したものを読み上げながらカスティリア語に翻訳する。すると傍らで聞いているキリスト教徒の学者がそのカスティリア語を聞きながらラテン語に翻訳する。こうした光景が見られたことが想像される。あるいは最初にヘブライ語に翻訳されたものが使用された場合もあったようだ」と。そして「こうした活動は、後のルネサンスの先駆けとも言えるものであり、ギリシャ文化がラテン語を使う修道院や西洋の大学に伝達される重要なルートになった」と、シェインドリンは指摘している。この指摘は、ヨーロッパ文明がイスラーム文明からギリシャ=ローマ文明の遺産を摂取する過程で、ユダヤ人が重要な役割を果たしたことを明確に示している。シェインドリンは、「ルネッサンスの先駆け」と書いているが、14世紀イタリアに始まるヨーロッパ文明のルネッサンスは、ユダヤ人の文化活動なくしては、大きく展開しなかったと考えられる。
 スペインにおいては、すべてのユダヤ人学者が、自由に能力を発揮できたわけではなかった。12世紀コルドバ出身のユダヤ人哲学者モーセス・マイモニデスは、偏狭なヨーロッパから移住を余儀なくされた。その時、彼はアラブ世界に寛容な避難所を見出した。カイロのサラーフ・アッディーン帝の宮廷で名誉と影響力のある地位を得たのである。そこで、マイモニデスは、アリストテレス主義、新プラトン主義、カバラー神秘主義に通じ、スファラディム系の哲学とアシュケナジム系のユダヤ学を総合した。マイモニデスを保護したアッディーン帝とは、十字軍が遠征した際に、イスラーム文明側で激しく抵抗したサラディンである。サラディンのみならず、イスラーム文明は他宗教に対して寛容だった。それは、宗教裁判が横行した西欧とは、顕著な違いをなす。世界的に見た中世では、先進的で寛容なイスラーム文明と、後進的で偏狭なヨーロッパ文明が対比されるのである。

 次回に続く。
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