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2017年01月10日21:57

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精神の物語(28) 池田信夫「靖国神社という偽の伝統」アゴラ2017.1.9

 慰安婦像の騒ぎにからんで、また韓国が稲田防衛相の靖国参拝を持ち出している。靖国には朝鮮人日本兵2万1000人(すべて志願兵)の霊も祀られているので、彼らがそれを攻撃するのは天に唾する行為だが、それはともかくとして、こういう非生産的な紛争を避けるために、閣僚の参拝はやめたほうがいいと思う。

 しかし靖国神社は(宗教ではなく、アーリントン墓地のようなものだが)「非戦の誓い」を立てる場所ではない。それは1862年に「招魂祭」を行なうためにできた天皇家の私的な慰霊施設だった。それを明治政府が国家護持したのは、キリスト教のような一神教がないと国民を戦争に動員できないからだ。
 それは小島毅氏の指摘するように「天皇のためにみずから進んで死んでいった戦士(天皇の私兵)を顕彰する施設」であり、国民に戦争で死ぬインセンティブを与えるイデオロギー装置だった。

 来世を信じない日本人が「靖国で会おう」を合言葉にして死地に赴いたのは、「万世一系の天皇」が神の代用品となり、個人を超えた永遠の「国体」という幻想を彼らに植えつけたからだ。

 それも一つの伝統には違いないが、「国体」はバーク的な意味での自然発生的な伝統ではなく、長州閥が政権を維持するために(17世紀の水戸学を基に)創作した「伝統」である。
 偽善的な「リベラル」が没落するのは当然だが、あとに残るのがこうした時代錯誤の「保守」だけだとすれば、あまり歓迎できない。

 ☆海風:以上がアゴラに掲載された池田氏の靖国論のかいつまんだ要約であるが、いかにも啓蒙主義的、合理的にして、融和的である。要するに、靖国神社とは、何の伝統も合理性もないのに近隣諸国と摩擦を起こすだけのものだと言うわけである。

 確かに神道にというか神社は元来戦死者を祀るためのものではない。それはただ、氏族・部族の先祖神に始まる先祖たちを祀るものであり、そこに戦死者もいるだろうが、特別扱いしているわけではない。
 (梅原猛流にいえば、戦死者はたたり神になる恐れがあるので、靖国神社で丁重にまつらねばならなかった、という理由もあったかもしれない。戦犯として処刑されたものこそ、たたり神として封じておく必要があった。)
 日本にはっきりと「天皇」なる最高の位が登場したのは、日本書紀の製作をきっかけとしているのだろうから、天武天皇が最初の天皇なのであろう。それ以前は、多分、近畿王国の「大君(おおきみ)」であり、当然、他の地域にも大君を名乗る首長がいたはずである。
 大伴家持の有名な「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」(万葉集)の歌の時はまだ大君だった。私は、白村江(はくすきのえ)での、倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れた時の歌でないかと思っている。この時は皇極(斉明)天皇・中大兄皇子(後の天智天皇)体制であったが。
 しかし、大勢の戦死者がでたはずであるが、その死者を祀ったという記録はない。
 そもそも大事なのは「魂」であって、先祖神に加わると共に、一方では、誰か子孫の魂となって新しく生まれるのである。遺体は朽ち果ててよかったし、仏教が入った来た時、遺体を焼く葬送儀礼に代わった。キリスト教のように、あるいは古代エジプトのように死者にとって遺体の保存が決定的に重要だったことはないのである。
 だからこそ、天皇や豪族のために山のような前方後円墳を造成しても、墓の中に天皇や豪族名はない。仁徳天皇陵などというのは推定である。両墓制は後のことらしいが、埋め墓は野山に埋めるようなものだったに違いない。だから、後のことだが埋め墓の地として、京の鴨川以東が鳥辺野と呼ばれる墓地になったのであろう。鎌倉時代に、そこに関東から帰ってきた親鸞が住んだことで浄土真宗の墓地(東大谷、西大谷)が造成された。

 三重県に住んでいた時のことだが、近くの村の神社(毎朝、太鼓の音で起こされた)に付属する建物の中を見て驚いたことがある。日清・日露戦争以来の戦死者の、無論その村の青年の遺影が壁全面に掲げられていたのである。靖国というより靖村神社だった。たしかに、皆、村の先祖神になっていたのだ。
 最初から脱線してしまったが、天皇が戦争を命じたのは藤原京から、奈良、平安時代までだったが、戦死者の魂は故郷に帰ったので天皇による慰霊施設はない。
 鎌倉以降は、将軍が守護大名に、あるいは戦国大名が国衆に命じたので直接天皇との関係はなくなった。もちろん、元寇では天皇が神風を祈ったし、戦国時代には有力大名に天下一統(統一)を命じた。大名たちは、「朝敵」になることを恐れ、相手方にそれを押し付けようとしたものである。明治維新では薩摩・長州は幼い明治天皇を手中に収め、朝敵になることを恐れた徳川慶喜を降伏させることに成功した。
 そのときまでは、天皇は軍を動かす立場にはなかった。
 で、明治維新で王政復古となって、天皇が大将軍の立場になってしまった。ここで初めて天皇による慰霊施設が必要になったに違いない。あるいは、そのように薩摩・長州の指導者たちが意識したのである。多分、欧米を回って必要性を痛感したのであろう。そこで、維新の同志たちの慰霊施設が国家的な靖国神社(地方では護国神社)に昇格したのである。
 ということで、言いたいのは決して天皇の「私兵」ではない。それを言えば、中国の軍隊は共産党の「私兵」と言わねばならない。彼らも、共産党主席が代表する中国のために戦うはずであろう。

 それにだいたい、靖国神社ができたから死を恐れずに戦争に行ったわけでもないし、来世を信じなかったわけでもない。生まれ変わりを信じていたのである。
 というのが、私の歴史と民俗学の知識を総動員しての反論である。
 池田信夫は啓蒙学者に見える。それは、福沢諭吉が村人が拝む神社の中に石ころがあるだけなのを見て、野原に捨ててしまったが何のたたりもなかったと回想していたのに似ている(福翁自伝)。
 ところで、韓国との摩擦は靖国神社のせいだというのは甘すぎる。あの国というか国民の信仰は儒教であって、「孝」親に従う、「悌(てい)」兄に従う、なのである。かの国によれば、親は中国、兄は韓国、弟は日本の順になる。韓国併合や慰安婦があろうとなかろうと、豊かになった弟が兄を養うのは当たり前であって、それをしぶる日本という弟を懲らしめるためには何でもありだと覚悟しておかねばならないのである。彼らに反日という意識はない。ただ、儒教の教えに従っているだkである。多分、そんな心境は啓蒙主義者の池田には理解しがたいに違いない。

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