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2016年11月11日09:45

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人権374〜集団の利益と個人の自由

●集団の利益と個人の自由

 自由とは、自由な状態への権利であり、自由に行為できる権利である。個人の権利は、その個人が所属する集団の権利が確保されていて、初めて保障される。集団の権利あっての個人の権利である。個人個人の自由権は、その集団が集団の権利としての自己決定権を保持している場合のみ、「国民の権利」として保障される。
 ある国が他国の侵攻を受ければ、政府は領土・人民を防衛する。政府が他国の侵犯を防ぎ、排除する。もし自由権とは真に国家の干渉・制約を受けない権利だというならば、他国の侵攻を受けても、政府の支援を受けずに、自力で防衛するものでなければならない。
 自由権を求める思想を徹底したリバータリアニズムは、政府の必要を認めるが、その機能を最小に限る。リバータリアニズムをさらに極度に推し進めると、アナキズムになる。個人が自由に生活できる無政府状態をよしとする思想である。だが、リバータリアニズムにせよアナキズムにせよ、それを信奉する人々が一個の国家の国民である限り、その人々の生命・安全・財産等を守るものは、その国の政府である。政府が国民の生命・財産、平和・安全を守っていることが、自由権の暗黙の前提となっている。その前提のもとでの個人の自由である。それゆえ、個人の自由は、政府が統治機関を担う国民の共同体の維持と両立するものでなければならない。そして、国家という集団の利益が個人の自由より優先される。集団の利益を保持し得る限りでの個人の自由と位置付けられなければならない。
 自由には責任が伴う。行為の結果が他者や社会に及ぶ場合は、その責任を負わねばならない。また自由の行使は他者の自由を損ねないことであっても、道徳・慣習等の観点から社会的に制約がされる場合がある。たとえば、自殺、堕胎、同性愛等である。それゆえ、自己決定の自由は、社会的な承認を得て初めて、自己決定権となり得る。この社会的承認を実定法に明文化し得るのは、国家という集団においてである。そして国家が保障する自己決定権は、「国民の権利」である。「人間の権利」ではない。

●受益権は自由権ではない

 自由権に関連して述べるべき権利に、受益権がある。受益権は、国民の利益の保障のために権力の積極的な発動を求める権利である。すなわち、作為請求権である。受益権は、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言で認められた権利である。18世紀当時の米仏において、受益権は、裁判を受ける権利、請願権、損失補償請求権などだった。政府に利益の実現を求める受益権は、請求権の一種であり、政府の干渉・制約を排する自由権とは異なる。バーリンの言う「消極的自由」ではなく、「積極的自由」に関わる権利である。それゆえ、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言が定めた権利は、自由権のみであるというとらえ方は、間違いである。
 今日、わが国を含む現代の先進国の憲法では、先の受益権のほかに国家賠償請求権、刑事補償請求権なども保障している。それによって、受益権は社会権に似た性格を持つようになっている。
 各社会の固有法は、権利の争いが生じたものに対して、裁判を行う際の判断の基準・根拠を示し、また権利を保障するものとして発達した。裁判を受ける権利は、他者と権利の争いを生じたとき、第三者に裁定を求める権利である。権利を制定するのはその集団である。個人一般の権利とは言えない。
 第9章で1993年の「ウィーン宣言及び行動計画」が人権の普遍性、不可分性、相互依存性、相互関連性を示したことは、人権の思想の展開において重要な出来事だと書いた。これは、自由権と社会権の一体性を打ち出したものと理解されているが、もともと自由権とされる権利の中に、政府の作為を要するものがあったことに注意すべきである。集団の権利あっての個人の権利であり、自由権もまた集団の権利が確保されていて、初めて集団の成員の権利として保障される。他国の侵攻からの防衛、集団全体の利益の追求等がなされていての個人の自由権である。
 このように考えると、自由権とはほとんどが「国民の権利」である。「国民の権利」とは別に非国民をも対象とする「人間的な権利」を考えるとすれば、それは道徳的な目標となる。

 次回に続く。
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