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2016年11月06日08:48

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人権372〜人権の内容を検討する時の基本事項

●人権の内容を検討する時の基本事項

 いわゆる人権は、人間の相互承認によって基礎づけられる権利であり、そのような権利として歴史的・社会的・文化的に発達してきた。20世紀半ば以降、人類は政府間の国際的な協議によって合意を作り、相互に承認し合うことで、各国及び国際社会で人権を発達させてきた。世界人権宣言、国際人権規約、各種人権条約等は、その成果としての文書である。それらには、様々な権利が人権の名の下に盛られているが、なんでも人権と呼ぶと、人権はとめどなく増殖する。そこで、人権の内容について理論的な検討が必要となっている。
 私は、人権の内容を検討する時、まず三つの基本事項を定めることが必要だ、と考える。
 第一に、人権を人間に限定した権利とするか、人間以外の生物や存在にも権利を認めるかを決めるべきである。これは、人権すなわち人間の権利と称している以上、人間に限定しなくてはおかしい。もし動物・植物・細胞等にまで権利の範囲を広げるのであれば、人権ではなく別の概念が必要である。それと同時に、人間だけでなく生物または生命体一般に関する理論を提示し、権利という概念が適当であることを論証しなければならない。
 動物愛護について言えば、動物に人間から愛護される権利があるかどうかではなく、人間に動物を愛護する権利があるかどうかを考えるべきである。ここにおける権利は、後者の動物を愛護する人間の権利である。その場合、特定の動物だけでなく、あらゆる動物の愛護に対象を広げるべきだろう。そうでなければ、一部の人が自分が愛好する動物を選別して愛護する特殊な権利の主張となる。また愛護する対象は動物だけに限定するのではなく、植物を愛護する人間の権利が同等に主張されねばならない。さらに細胞や生命体一般を愛護する人間の権利もまた同等に主張されねばならない。この場合もまた細胞や生命体に人間から愛護される権利があるのではなく、人間が細胞や生命体一般を愛護する権利があるとして主張されねばならない。だが、人間の生命は、細胞の不断の生滅によって維持されており、また他の生命体を食物として摂取することによってのみ維持し得る。動物の生命を奪うのはよいが、植物の生命を奪うのは構わないというのは、動物中心主義である。私は、人間は生きとし生けるものに感謝し、他の生命体の生命を頂戴することによって生かされていると考える姿勢が必要だと思う。
 第二に、各国の国民の権利と、人間一般の権利を分ける必要がある。私は、人権は主に国民の権利として発達してきたものであり、権利の付与と保障は各国の政府が行い、権利に伴う義務は各国の国民が負うと考える。権利を保障するための労役と費用を誰が負担するかを明確にせずに権利を拡張することは、道徳的な要求に応える努力にはなっても、それを法的権利として保障することはできない。国連の参加国・非参加国を問わず、人権が侵害されている時、人権の回復に要する労役は、各個人には課せられていない。参加国の政府が軍隊や専門技術者等を派遣して、平和維持活動等を行っている。またその費用を含む国連の諸費用は、国連税のような形で、各個人から直接徴収されてはいない。国連は参加国の政府に対して分担金を課している。ただし、分担金を払わない米国のような国に対して、強制的に徴収できる制度にはなっていない。
 こうした事実は、今日人権と称されている権利の実態は、主に国民の権利であることを示している。人権とは言っても、主に各国が人権の名の下に国民の権利を国民に保障しているものである。そして、独立主権を持った諸国の政府が協議し、共通の権利の目標を掲げ、互いにその権利の実現に協力するとともに、国家の枠組みを失ったり、その枠組みから外れたりした人々に支援の手を差し伸べるというのが、現代の国際社会の仕組みである。それゆえ、現実的な各国の国民の権利と、理念的な人間一般の権利をしっかり分ける必要がある。
 人権の実態は主に人間の権利ではなく国民の権利であるという考え方に立てば、基本的人権とは何かは、まずそれぞれの国民が決めればよいということになる。基本的人権について国によって規定が違ってよい。その規定は、伝統的道徳をもとにしたり、宗教をもとにしたり、社会思想をもとにしたりなどと考え方が違ってよい。なぜならば、権利は、神とか宇宙的理性などの超越的な原理に直接基づくものではなく、人間の能力の行使に関する相互承認によるものだからである。こうして複数の考え方が併存している状態で協議をして、基本的人権について合意を作っていけばよい。実際、人類は概ねそのように進んできたのであり、今後もそのように進んでいくだろう。
 第三に、国際社会における人権は法的権利ではなく、社会的権利であることを明確にすることである。
 人権は、道徳的要求として主張され、各国で政治的な闘争を通じて、権利として認められ、また定着されてきた。第1部の権利の項目に書いたが、人々の相互承認によって生ずる権利は、社会的権利(social right)である。社会的権利には、習俗的権利や宗教的権利、道徳的権利等がある。これらの権利が法に定められたとき、法的権利(legal right)となる。権利は法に定められることで、社会的な公認が確立され、安定したものとなる。法が集団の成員の権利を保障することは、権利はもともと一定の社会的な制限の枠内でのみ成り立つものであることを示している。自由もまた同様である。自由とは、自由な状態や行為に関する権利だからである。
 各国においては、法的権利となった権利は、政府に国民に対して保障する義務があり、国民には相互に権利を守る義務がある。だが、国際社会においては、各国における法体系とは異なる条約・規約等によって政府間で約束がなされる。国際法も法と呼ばれるが、国内法におけるような一元的な統治権力は存在せず、法に違反した場合の物理的強制力も存在しない。その点で、法としては不完全なものである。国際人権規約にしても、そこに定める人権に履行の勧告はされるが、強制はされない。そのため、人権は、国際社会では法と道徳の中間に位置する性格を持っている。そのような権利は、法的権利というより社会的権利である。人権を社会的権利と考えれば、法的義務はないが、道徳的に強く求められ、実現しなければ道徳的に非難されるような権利ということができる。もし現在の国際社会において、人権を法的権利とのみ考えるならば、厳密には各国の国民の権利以外に、人権と呼ばれる権利は存在しないことになる。
 人権を、法的義務はないが、道徳的に強く求められ、実現しなければ非難されるような権利だとする時、人類は人権の発達のために道徳的向上を目指して努力しなければならないことになる。この道徳的な課題と人権の保障・拡大は、決して切り離すことができない。道徳的向上は、家族的生命的な関係を基礎とした共同性においてこそ可能である。親が子を産み、育て、しつけをする。その子がまた自分の子にそれを行う。こうした世代間での養育を通じて、道徳は教えられ、また継承され、発展もする。最初から大人であるかのようなアトム的な個人が、世界市民的な意識で道徳的権利を説くのは、人間の基本的なあり方を見失っているものである。
 人権の内容の検討は、これら三つの基本事項を定めたうえで行うべきと私は考える。

 次回に続く。
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