mixiユーザー(id:525191)

2016年11月02日08:23

959 view

人権371〜人格と共感の概念が人権の基礎づけに必要

●人格と共感の概念が人権の基礎づけに必要

 ロールズは、人権を狭く限定しており、最も狭くする意見としては「奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利」と述べているが、これらの権利は、相手が感じる痛み、苦しさ、悲しさ、恐怖等を、相手の身になって感じ、考える能力があってこそ、権利として認め得るものである。人類の間に共感の能力が発達する時、ロールズが「道理」を理解するか否か、「良識」があるか否かという理性的な区別の仕方を超えて、より深い相互理解と権利の相互承認が実現されるだろう。
 共感による道徳哲学を説いたアダム・スミスは、「公平な観察者」という概念を提示した。「公平な観察者」という考え方は、キリスト教の神の教えを絶対的な規範とするものではない。また理性を道徳的能力の根源とするものでもない。相手の喜怒哀楽を共にし、相手の身になって考え、相手の感情を思いやるという、どのような社会、どのような文化でも見られる共感という心の働きから、道徳をとらえる考え方である。センは、スミスの「公平な観察者」に注目し、国際化の進む現代世界に必要な考え方であることを強調している。その理由は、「公平な観察者」は、言語・文化・宗教・思想等の違いを超えた理解や判断を可能にする能力を、象徴的に表現する概念だからである。
 広く他人の身になって考え、理解する能力が伸長するにつれて、「公平な観察者」としての能力も発達し得る。「公平な観察者」は、共感の能力を基礎として発達する能力であり、自他を客観的に評価して、物事の判断を行う能力である。共感による「公平な観察者」の道徳論は、欧米諸国だけでなく非西洋文明の諸国の間でも合意を形成できる可能性がある。それゆえ、私は、文明や文化の違いを超えて「発達する人間的な権利」を基礎づけようとする際、共感の能力に注目すべきと考える。世界人権宣言について言えば、私は、共感の能力を共通の根として、理性・良心・同胞愛の精神が発達したと考える。また、集団内及び集団間における権利の相互承認は、理性・良心・同胞愛の精神による判断であり、それらのもとには共感の能力の働きがある、と私は考える。
 共感を感じる主体は、人格的な存在である。人格の成長・発展は、より豊かな共感の能力をもたらす。またそれを共通の根とする理性・良心・同胞愛の精神の発達をもたらす。相手の身になって感じ、考えることができる能力が大きく発達するならば、人々は相互の権利を承認し合い、また保障し合うようになり、権利は、集団の目的のもとに責任・義務を伴ったものとして発達するだろう。こうして「発達する人間的な権利」としての人権は、人間の人格的な向上とともに発達していくだろう。
 私は、このように考えるので、人権を論じるに当たり、人格と共感という二つの概念を用いることが必要だと思う。これらの概念を用いることによってのみ、人権の基礎づけができると考える。人権とは、共感の能力を持つ人格的存在が、互いに承認し合う権利として正当化することができる。
 ところで、心理学には、意識は人間の心の一部であり、心には無意識の領域があるという考え方がある。共感に関する研究は、意識の領域だけでなく無意識の領域にわたるものになるだろう、と私は考える。無意識には階層があり、フロイトが研究した個人的無意識、ソンディが研究した家族的無意識、ユングが研究した集合的無意識に分けられる。集合的無意識には、民族的無意識や人類的無意識が想定される。ユングは、集合的無意識から生まれるイメージは、時代や文化、宗教等が違っても共通して現れるとし、そうしたイメージの基に元型があるという仮説を立てた。元型には、マンダラ、老賢者、アニムス、アニマ、影等がある。またユングは、元型が働くときには、物理的な現象と心理的な現象の間に「意味のある偶然の一致(コインシデンス)」が現れることがあるとして、様々な事例を示した。そうした物心並行的な現象を解明するために「共時性(シンクロニシティ)」という概念を提示した。人類的なレベルで共感の研究を行う時、ユングの仮説は再評価されるべきものである。諸個人の心は、人類の心の共通の根から生まれたものであるとすれば、諸個人は集合的無意識のレベルでこそ、共感の能力をよりよく発揮し得るだろう。
本項についてまとめると、私は、人権について基礎づけ、つまり根拠を示して権利を正当化することが必要だと考える。その根拠は、人間が相互に権利を承認し合うこと、相互承認にある。諸個人は生命的価値だけでなく、文化的・心霊的な価値を生み出す人格的存在であり、人格的存在としての人間における権利の相互承認は、理性・良心・同胞の精神の共通の根となる共感の能力に基づく。このように私は考える。
 私の考えは、世界人権宣言の条文を踏まえているから、その点でミラーのいう「実践に基づく戦略」と通じる。ただし、人権には基礎づけが必要だという立場からの戦略である。また私は、主な世界宗教や重要な非宗教的世界観もすべて共感の能力に基づくと考えるので、「重なり合う合意の探求」戦略にも通じるものと思う。
 21世紀の人権論は、共感の能力を持つ人格的存在という人間観を取り入れるべきである。共感は、単に生物的・身体的な存在としてだけでなく、文化的存在、さらに心霊的存在としての人間の間で交わし得る心の働きであり、教育や社会活動、国際交流を通じて、開発・強化されるべきもの、と私は考える。共感の能力の発達によって、世界人権宣言が掲げた理性・良心・同胞愛の精神は、その共通の根から養分を吸い上げて、より大きく発達することができるだろう。また、共感の能力に基づくことによって、個人の人格を尊重しつつも、個人本位・権利志向ではなく、家族・民族・国家、責任・義務・目的を重視した人権論の構築が可能になるだろう。

 次回に続く。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する