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2016年10月11日08:52

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人権363〜正義論の根本に置かれるべきもの

●正義論の根本に置かれるべきもの

 正義論の展開を古代ギリシャから現代まで振り返り、現代の正義論における妥当な考え方のまとめを行った。ここで再び古代ギリシャの正義論に目を向けてみよう。すると、現代人がすっかり失ってしまっているのは、自然・社会・心身を貫く理法と、それに沿った状態・行為としての正義という考え方であることに気づくだろう。この考え方は、プラトン・アリストテレスにおいて既に概ね失われていた。以後、ヨーロッパでは中世から近代・現代を通して、再び顧みられることがなかった。
 現代人の多くは、自然は自然科学者が研究し、自然法則を見出し、技術的に利用するものと考え、社会は社会科学者が社会法則を見出し、これを政治・経済に利用するものと考え、人間の心身は医科学者がこれを検査し、手術や投薬によって病気を治すものと考えている。これらの間に共通するものは想定されない。自然・社会・心身は、基本的に異なる領域であり、別々の法則が作用していると考えている。また正義は、社会における正義であって、自然の法則や心身の病気・健康には関係のないものと考えられている。カント主義、功利主義、ロールズ、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズム等において、正義は社会における正義であり、自然と文明の調和や人間における心身の健康とは、直接関係のないものと考えられている。正義の観点から人権を論じる場合も、そこにおける権利主体としての人間は、社会関係における人間であって、同時に自然環境の中で生き、心身の働きを以て生きている人間という面は重要視されない。
 私は、この点に根本的な問題があると思う。自然・社会・心身は人間が作り出した区別である。人間が生きる世界の側に、その区別が存在するのではない。人間の認識において区別しているものである。そのため、社会における正義の根本として追求されるべき、宇宙の根本理法が見失われている。人はまず健康でなければ生きていけない。それには心身の調和が必要である。社会において協働しなければ生きていけない。それには社会の調和が必要である。自然に沿っていかなければ生きていけない。それには自然との調和が必要である。これらに共通する調和、すなわち宇宙の根本理法に従った調和という原初的な観念に立ち返り、この考え方を取り戻すことが必要である。
 不自然な状態を自然な状態に戻す。秩序を欠く状態を秩序ある状態に戻す。調和の無い状態を調和のある状態に戻す。そのように考えた古代ギリシャ人の理法(ノモス)は、シナ文明の道(タオ)、日本文明の道(みち)または道理に通じるものである。特に日本の神道及び和の精神には、古代のギリシャやシナの考え方に通じるとともに、生き方として、より深めた姿を見出すことができる。
 このように考えた上で、再度、社会における正義について考察すると、まず社会における人間のあり方を、家族的生命的なつながりを基に考えることの必要性が、より強く認識されるだろう。近代西洋人は、個人主義、合理主義に傾き、人間観が抽象的個人と機能的集団によるものとなっており、生命的個人と共同的集団として人間をとらえることができていない。まずこうした人間観を改めることが必要である。
 正義とは、人間が歴史的・社会的・文化的に作った法や道徳に従っている状態である前に、宇宙の根本理法に順じた状態・行為でなければならない。また配分的/交換的正義及び矯正的正義は、宇宙の根本理法に従って集団として生きるという目的に照らして、配分/交換や矯正がされているかどうかという観点から評価し直す必要がある。
 人権とは「発達する人間的な権利」であり、「人間的な」「人間らしい」という観念は、歴史的・社会的・文化的に変化する。だが、どのような状態を「人間的な」「人間らしい」ととらえるにしても、その人間が自然・社会・心身を貫く調和の理法に沿った生き方をすることが、すべての根本になければならない。そして、すべての国民、すべての人類がこうした生き方をできるようになることを目標とする必要がある。(第11章 終わり)

 次回に続く。
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