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2016年10月08日08:54

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人権362〜ロールズと現代の正義論の展開

●ロールズと現代の正義論の展開

 第2次世界大戦後としての現代の正義論には、ロールズの影響が大きい。正義と善の関係について、ロールズはカントの考え方を継承した。カントは人間が自由であるのは、道徳的な存在であるからだと考えた。道徳的な存在であるとは、理性によって自らの道徳法則を自由に定めることができることである。それゆえ、カントの正義論では、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されず、正義が善に対して優先される、とロールズは理解した。
 ロールズの「公正としての正義」の理論では、彼の理解するカントにならって、正義が善に対して優先された。ロールズにおいて正義が善より優先されることには、二つの意味がある。第一に、個人の権利は集団全体の善のために犠牲にされてはならないこと。第二に、権利の枠組みを定める正義の原理は、個々人の「善い生き方」に関する特定の見解を前提にしてはならないこと、である。
 ロールズは、『正義論』で正義の2原理を提示した。正義の第一の原理は平等な自由原理である。平等な自由への権利に関わる原理であり、これには種々の自由権が含まれる。第二の原理は機会均等原理と格差是正原理である。これは、組織のあり方、所得や富の配分に関わる。第一原理は第二原理に優先する。第二原理の中では、公正な機会均等原理が格差是正原理に優先する。すなわち、“平等な自由原理>公正な機会均等原理>格差是正原理”とされる。
 こうしたロールズの正義の2原理は、共同体が解体した近代市民社会において、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとしたものだった。ここで正義とは、自由を優先しつつ、平等への配慮が社会制度として実現されている状態を意味する。また、ロールズのいう原理とは、諸価値の総合の仕方をいうものである。
 ロールズに対するノージックとドゥオーキンの批判は、ロールズよりも自由を重視するか、平等を重視するかの違いによる批判だった。ここには自由を至上の価値としその実現を以て人権の実現とする考え方(ノージック、リバータリアン)、社会的な平等の実現こそ人権の実現とする考え方(ドゥオーキン、社会民主主義に近い)、また自由優先のもとで自由と平等の均衡点に人権の実現を目指す考え方(ロールズ)がある。人権は普遍的・生得的として自明の権利とされるというのに、正義の観点からは、人権について、これだけ違う考えがある。
 ロールズは、正義には三つのレベルがあるとした。第一は「ローカルな正義」、第二は「国内的正義」、第三は「グローバルな正義」である。最後の「グローバルな正義」は、ロールズの場合、実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えているので、グローバルというより国際的な正義である。
 これに対して、ロールズを批判するコスモポリタンは、国家の枠組みを超えたグローバル正義を主張する。これを加えると、正義は4階層になる。すなわち、(1)ローカルな正義、(2)ナショナル(国内的)な正義、(3)インターナショナル(国際的)な正義、(4)グローバルな正義である。
 ローカルな正義及び国内的正義については、ロールズは社会契約説の思考実験に基づく理論を説いた。だが、社会契約説は歴史的事実と異なる仮想の理論であり、社会契約説を一般化して正義の原理を考案したのは、公共的理性を持つ者なら誰でも当然考えることだと自己の主張を正当化しようとしたものである。また、ロールズの自己は「負荷なき自己」だが、実際の自己はサンデルのいう「位置づけられた自己」である。それゆえ、ロールズを批判するコミュニタリアンが説くように、正義は共同体に基づく正義であり、それぞれの社会において文脈によって決まるものである。ただし、私見を述べると、文脈とは単に文化的な文脈ではなく、歴史的・社会的・文化的な文脈である。ある社会における社会正義は、その社会の歴史的・社会的・文化的な文脈における正義であって、一律ではない。ネイションが異なれば歴史体験、社会通念、文化習慣等が違うため、社会正義の構想もまた異なる。また、それは多元的かつ個別的すなわち特殊的なものとなる。
 正義の実現の仕方も、それぞれの社会において異なる。サンデルのいう「連帯の義務」は、家族・部族・民族・国民等における特別の義務として強調されねばならない。共同体の重要性を再評価する時、共同体の目的に沿った正義という意味での目的論的な正義観が成り立つ。この正義は近代化以後、再び善と結合した公共善に基づく正義となる。ただし、「連帯の義務」は、人類普遍的な義務という考え方を排除するものではない。共同体の構成員は、共同体の一員としての義務を果たしながら、人類普遍的な考え方に立つ義務を担うことができる。
 次に、国際的正義とグローバルな正義については、コスモポリタンとコミュニタリアン及びリベラル・ナショナリストの論争によって、コスモポリタンのグローバルな正義は、国際社会の現実から乖離した観念性の強いものであることが明らかになっている。
 コスモポリタニズムは、各国の国民をアトム的な個人へと分解する。その個人に人類の一員としての普遍的な道徳的義務の履行を要求する。そこには、グローバル正義を一元的な価値とし、すべての人がそれに従って行動しなければならないという思想傾向がある。だが、現代の世界におけるグローバルな正義とは、ネイションを越えたグローバルな正義ではなく、各ネイションの自決と協調に基づく国際的正義と考えるべきである。

●現代正義論における妥当な考え方

 私の観点から、現代の正義論における妥当な考え方を10点にまとめるならば、次のようになる。

(1)正義とは、自由と平等の均衡が社会制度として実現されている状態である。
(2)ここで自由とは、ケイパビリティの概念によって深められた実質的自由である。
(3)正義には、ローカルな正義、国内的な正義、国際的な正義がある。
(4)正義と善は不可分であり、正義は共同体の目的による公共善に基づくものである。
(5)正義は、それぞれの社会において歴史的・社会的・文化的な文脈によって決まる。
(6)ある社会における正義は、その社会における正義であって、他の社会にも一律ではない。
(7)集団においては、家族的・部族的・民族的・国民的等の道徳的義務を優先し、そのうえで他の集団への支援を行うべきものである。
(8)正義の実現のための支援は、自立への支援であって分配による平等の実現まで行うべきものではない。
(9)国際的正義は、個人単位ではなくネイション単位で考えるべきであり、ネイションの役割を重視し、各ネイションの自決と協調に基づく正義の実現が目指されなければならない。
(10)国際社会における支援は、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すべきである。支援の原則は、自助自立できるように支援することである。

 次回に続く。

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