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2016年05月31日09:13

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人権314〜サンデルは目的論を再評価

●目的論を再評価

 サンデルは、「正義は善と相関しており、それと独立した存在ではない」と考える。その点では、コミュニタリアンと見解が一致する。ただし、見解の違う点がある。その相違点は、サンデルの思想の独自性を示すものである。
 サンデルは「正義は善と相関しているという主張には、二つの種類があり、通常の意味で『コミュニタリアン』的とされるのは、そのうちの一つだけである」と言う。
 サンデルは、正義と善を結びつける一つ目の方法は、「正義の原理はその道徳的な力を、特定のコミュニティや伝統の中で一般に支持されていたり、広く共有されていたりする価値観から引き出す」と考えることだという。この方法は「何が正義で何が正義でないかを定義するのはコミュニティの価値観であるという意味で、コミュニタリアン的である」と言う。
 二つ目の方法は、「正義の原理は、それが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化される」と考えることである。サンデルはこの方法は「厳密に言えばコミュニタリアン的ではない。この方法が、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるとする以上、目的論的あるいは完成主義的というほうがふさわしい」と言う。サンデルは、アリストテレスの政治論をその例に挙げる。アリストテレスの政治論は目的論であり、また人間は徳を身に付けて自己完成に至るべしという完成主義(perfectionism 卓越主義)である。
 「二つの方法のうち、第一のものは適切ではない」と、サンデルは判断する。「何らかの慣習が特定のコミュニティの伝統で認められているという事実だけでは、それを正義とするのに十分とは言えない。正義を因習の産物としてしまえば、その批判的性質を奪うことになるからである。問題となる伝統が要求するものをめぐって解釈が対立することを考慮しても、それは変わらない。正義と権利に関する議論が、価値判断に関わる側面を持つのは避けられない。権利を擁護する論拠は本質的な道徳的・宗教的な教説に中立であるべきだと考えるリベラル派と、権利は支配的な社会的価値を土台とすべきだと考えるコミュニタリアンは、似たような過ちを犯している。どちらも、権利が促進する目的の内容について判断するのを避けようとしているのである」と指摘する。そのうえで、「選択肢はこの二つだけではない」として、「私の見るところもっと妥当な第三の可能性は、権利の正当性はそれが資する目的の道徳的な重要性にかかっているとするものである」と述べる。
 サンデルは、基本的にロールズらの自由主義に批判的であり、コミュニタリアニズムに一定の賛意を示す。正義と善の関係についてもそうである。だが、コミュニタリアニズムが、何が正義で何が正義でないかを定義するのはコミュニティの価値観であると考える点は、間違っているという。そして、上記の「二つ目の方法」、つまり正義の原理はそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化されると考えることへの支持を述べる。ここでサンデルは、他のコミュニタリアンと異なり、アリストテレス的な目的論の考え方への賛同を表明する。
 サンデルの理解によると、「アリストテレスにとって、正義について判断することは、問題となっている物の目的(テロス)あるいは性質に基づいて判断することである。正しい政治的秩序について考えるためには、善い生き方から論じなければならない。最善の生き方がどんなものかをまず知らなければ、正しい国制を構築することはできない」。そして、次のように言う。「現代の正義論は、公正さや正しさに関する問いを、名誉、徳、道徳的真価をめぐる議論から切り離そうとする。すべての目的にとって中立的な正義の原理を探り、人々が自ら目的を選び追求できるようにしようというのである。だが、アリストテレスは、正義がそのように中立的なものだとは考えない。彼の考えでは、正義をめぐる論争は必然的に、名誉、美徳、善い生き方をめぐる論争になるのである」と。
 サンデルは、こうしたアリストテレスの正義と善に関する考え方を高く評価する。そして、正義には美徳を涵養することと公共善について判断することが含まれるという見解への支持を明らかにしている。
 欧米社会には、現在もカトリックの文化とプロテスタントの文化の違いがある。さらにユダヤの文化が深く浸透している。カントやロールズはプロテスタントの文化を背景にしているが、サンデルの背景にはアリストテレス=トマス的な伝統が存在する。また米国では、アメリカ的なナショナリズムに対して、ユダヤ的なナショナリズムが影響力を持っている。この要素もサンデル自身の思想には、見受けられる。さらに米国にはアフリカ的な文化、ヒスパニックの文化、イスラムの文化等が、「サラダボール」のように混在している。
 こうした社会において、サンデルは、次のようにいう。「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、実現できない。公正な社会を実現するためには、善い生き方の意味をわれわれが共に考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を創り出さなければならない」とサンデルは言う。道徳的・宗教的な信念の違いによって意見が対立する事柄だが、社会的に重要な課題は多くある。サンデルは、それを回避すべきではない、積極的に取り組む必要があると説く。そして、「公共の文化」を創り出すために、サンデルは、教育や政治参加の推進が必要だとし、「公共哲学」を説いている。
 サンデルは、公共哲学において、未だ共同体または国家の目的をはっきり示していない。それは、アリストテレスのいうところの「最も望ましい生き方の本性」を明確にし得ていないからだろう。アリストテレスは、「それが曖昧なままであるうちは、理想の国制の本性もまた曖昧なままであるしかない」と説いているからである。
 私は、サンデルが説く集団の目的を重視する目的基底的な考え方を妥当とするとともに、物心調和の文明、共存共栄の世界を建設するための公共哲学・公共文化の創造が必要だと考える。その新文明建設という目的のもとに、個人・集団・国家の権利と義務の体系的な見直しが必要と考える。
 さて、私は、ここまでに書いたコミュニタリアン及びサンデルの思想は、欧米の市民社会において、そこでの共同性の回復を図るものと考える。それらの思想はローカル、エスニックまたはナショナルな共同体を志向しており、世界人権宣言や国際人権規約、各種の国際人権条約については、積極的に考察していない。そのため、人類規模の善や国際的な正義に関する議論へと発展していない。私は、彼らの思想は、資本主義世界システムにおけるメトロポリスの住民の思想であると考える。巨大国際金融資本によるグローバリズム(地球統一主義・地球覇権主義)が生む国際的な格差の是正や、発展途上国側が主張した「発展の権利」の確立・拡大については、主体的に検討していない。人間開発や人間の安全保障の思想とも、まだよく結びついていない。世界の貧困者を何パーセント減らすとか米国の乳児死亡率を何パーセントに下げるとかいう具体的な目標がない。そこに、ここまでに書いたコミュニタリアン及びサンデルの限界を私は見る。
この点、ロールズは、世界人権宣言や国際人権規約、各種の国際人権条約について具体的には論じないが、「諸国民衆の法」の構築を試みることによって、国際的な正義を目指す取り組みのきっかけとなった。ロールズを批判する者の中には、ローカル、エスニックまたはナショナルな共同体を志向するのではなく、グローバルな問題に取り組み、世界的に大きな影響を与えている思想家もいる。後程そうした思想家について検討するが、その前に、わが国において、ロールズ及び現代の自由主義を批判する代表的な思想家として、佐伯啓思について述べたい。

 次回に続く。
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