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2016年05月12日08:53

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人権306〜「重なり合う合意」を求める政治的自由主義

●「重なり合う合意」を求める政治的自由主義

 ロールズは、『政治的自由主義』で、自らの政治哲学を「包括的(comprehensive)な自由主義」と区別した。包括的な自由主義とは、カントやヒュームに見られるような「包括的な世界観」に基づく自由主義である。「包括的な世界観」とは、人生の価値や人格の理想を説き、政治以外の分野の問題にも答えを示す思想体系をいう。これに対して、ロールズは、政治の分野に取り組みを限った「政治的自由主義」を標榜する。
 ロールズによると、現代の民主的な社会では、宗教的・哲学的・道徳的に異なる複数の包括的世界観が併存している。それらは、融合は不可能だが、互いに暴力でなく言論を通じて、相手の意見に耳を傾けるという関係にある。ロールズは、この状態を「穏当な多元性」と呼ぶ。そして、政治的自由主義は穏当な多元性を背景とするものであり、正義の原理を示すには、真理ではなく、「筋が通っている」とか「道理に適っている」という基準に訴えるしかないと考える。
 ここで「穏当な」「筋が通っている」「道理に適っている」と書いた原語は、reasonableである。reasonableは、古くは人が理性的であることを意味した言葉で、今日では、人が道理をわきまえて分別のあること、言動に筋が通っていること、考え方が道理に適っていることをいう。そこから性質や状態が穏当・適性であることを表す。
 前期の『正義論』ではカント的な道徳的人格の概念にもとづき正義の原理を哲学的に正当化しようとする姿勢を示していたロールズは、後期の『政治的自由主義』では、人間本性に基づく普遍的な合意ではなく、相対立する宗教的・哲学的・道徳的教説(doctrine)の間で同意のできる部分、すなわち「重なり合う合意」(overlapping consensus)が得られれば十分だとする考えに変わった。「重なり合う合意」とは、具体的には、近代国家の各国の憲法に含まれる人権条項の間の重なり合いをいう。この合意は、西方キリスト教の宗教戦争やユダヤ人の解放を通じて、徐々に定着してきた「寛容の原理」を拡張するものといえる。
 生前最後の著書『公正としての正義 再説』では、ロールズは次のように書いている。
 「穏当な多元性の事実を所与とすれば、その構成員のすべてが同一の包括的教説を受け入れるような秩序だった社会は不可能である」「しかし、民主的な市民たちは、異なった包括的教説を抱いていても、正義の政治的構想には合意できる。正義の政治的構想が、民主的社会の市民としてのわれわれが得ることができる社会的統合の十分かつ最も道理に適った基礎を提供する、と政治的自由主義は考える」と。
 政治的自由主義は、特定の教説に依拠せず、価値観・世界観に関する問題には立ち入らない。そして異なる教説の間の関係を政治的に調整する仕組みを提示する。そこにおいて、正義とは「重なり合う合意」の焦点となるものである。かつて『正義論』における正義の原理は、社会契約によって社会の基本構造を定める基本的な枠組みだった。それは、集団を構成する人々が集団の内部で守ろうとする決まりごとである。これに比し、「重なり合う合意」は、複数の集団の間における合意である。各集団は、それぞれの正義を内部の原理として持つ。それらの原理は普遍的ではなく特殊的であり、相違と対立のあることが想定されている。「重なり合う合意」に関する正義は、各集団の間における正義である。その正義は、集団内の正義とは必ずしも一致しない。基本的な価値観や世界観が異なるからである。
 ロールズは「重なり合う合意」を求めることによって、米国のような多文化的な国家において、価値観・世界観の異なる集団の間で、どのように正義についての合意を成立させたらよいかという問題に答えを見出そうとしたと見ることができる。この試みは、また諸文明・諸文化が併存する国際社会において、価値観・世界観の異なる集団の間で、どのように正義についての合意を成立させたらいいのかという課題への取り組みともなる。
 だが、ここでロールズが『正義論』で取った社会契約説のはらむ問題点が浮き彫りになる。もともとホッブス、ロックらによる社会契約の国家は、歴史的に実在するものではない。社会契約説は、ヒュームらによって実証的に否定されている。だが、ロールズは『正義論』で社会契約説を一般化し、抽象度を高めることによって、「公正としての正義」を打ち出した。集団内の正義は、社会契約説による思考実験で定式化できる。しかし、集団間の正義は、社会契約説では説明できない。社会契約は仮想的なものだが、「重なり合う合意」は集団間の対話と交渉による現実的なものである。ロールズは『政治的自由主義』に至って「重なり合う合意」でよしとする立場に転じるとともに、仮説と現実、国内と国際の違いに直面し、社会契約説の限界を露呈したといえよう。
 実際、『政治的自由主義』では、正義の2原理の妥当性の根拠は、社会契約説ではなく、実質的には宗教改革以降の西洋文明の公共的な政治文化に置かれている。正義の構想も、公共的な政治文化に潜在すると想定される諸観念によって、組み立てられている。これによって、正義は歴史的・社会的・文化的な文脈によって決定されることが露呈している。だが、ロールズは自説を撤回せず、正義論の議論をやり直さずに社会契約説の手法を保ち続ける。私は、そこに学者としての名声・評価を守ろうとするための欺瞞があると思う。
 正義は、法として制度化される。一つの国家という集団の内部であれば、合意は憲法を頂点とする国内法の体系に表現される。これに対し、諸国家という集団間で合意を形成したものは、条約や協定という形による国際法に表現される。ロールズの政治的自由主義は、国家間の問題でも実際に有効かどうかを問われている。その点については、次の項目に書く。

 次回に続く。
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