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2015年11月13日08:40

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人権225〜第2次大戦による人間の危機

●第2次世界大戦による人間の危機

 第2次世界大戦は、欧米を中心に発達してきた人権を危機に陥れる出来事だった。戦争は権利と権力の闘争における究極の事態である。「人間的な権利」を根底から揺るがすだけでなく、人間そのものが危機に直面する。なかでも第2次大戦は、過去人類史上最大の危機を生み出した。この大戦は、人権の保障に関してかつてないほど深刻な課題をもたらした。
 1939年(昭和14年)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。ヒトラーとスターリンは、密約によってポーランドを東西に分割した。スターリンは、同年11月フィンランドにも侵攻し、領土を拡張した。国際連盟は同年12月ソ連を除名した。
 40年5月10日、ドイツは電撃作戦を開始し、デンマーク、ノルウェーを占領、オランダ、ベルギーに侵攻した。6月18日、パリが占領された。市民革命によって自由・平等・友愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の支配を受けるはめになった。ドイツの破竹の勢いを見たイタリアも、大戦に参戦した。 ヒトラーは、9月ロンドンへの空襲を開始したが、チャーチルは不屈の意思をもって国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していた。だが、強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していった。
 ヒトラーに幻惑されたわが国は1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結した。そのため、欧米の強い反発を買った。石油確保を目指して、南部仏印に進駐すると、アメリカから対日石油輸出禁止の制裁を受けた。石油が入ってこないとは、経済活動が縮小し、ジリ貧に陥ることである。わが国の政府は、外交による事態の打開を図った。近衛文麿首相は日米首脳会談を決意し、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルは、41年(昭和16年)8月14日大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発し、領土不拡大、民族自決、通商・資源の均等解放等の指導原則を明らかにした。
 わが国は、9月6日の御前会議において、外交努力を継続しつつも、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米英開戦を決意するという方針を決定した。国務長官ハルは、ハル・ノートを突きつけてきた。わが国の指導層は、その要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解し、対米決戦へと歩を進めた。
 12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。また同日、イギリス領マレーへの上陸作戦を開始した。こうしてヨーロッパで始まった戦争は、東アジア・太平洋での戦争と結合し、世界規模の大戦となった。わが国は自国の戦争を大東亜戦争と名づけ、アメリカは太平洋戦争と称した。
 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、枢軸国が優勢だった。しかし、42年6月、わが国はミッドウェー海戦で主力空母を失い、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。42年6月ソ連に侵攻したドイツはロシアの冬に直面し、43年1月、第6軍がソ連軍に降伏し、以後、ドイツは各地で敗北を重ねた。42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年9月イタリアは無条件降伏した。44年(昭和16年)6月6日、連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功し、45年(昭和20年)に入るとドイツ領内に侵攻した。
 こうした戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。同年年2月クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる首脳会談が行われた。彼らは、ドイツに対する戦後処理として、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意した。この会談で、米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島と南樺太の奪取を認めた。これは領土不拡大を宣言した大西洋憲章を曲げる密約だった。スターリンはヤルタ密約を背景に、ドイツに進軍した。アメリカ軍とソ連軍はエルベ川近くで合流し、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。
 わが国は3月10日、アメリカ軍のB29によって東京への空襲を受けた。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為だった。わが国の66の主要都市が次々に無差別攻撃され、老若男女の無辜の民が斃れていった。8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。そのほとんどは、非戦闘員である。続いて9日には、二発目の原爆が長崎に投下された。約7万人が殺害された。9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。満州、樺太、千島列島等に、ソ連軍が猛然と攻め込んできた。
 ここにいたって、昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。ドイツと違い、日本は、正統なる政府が厳然と存在し、連合国と外交交渉を行ったので、日本の降伏は条件付き降伏だった。9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争となった第2次世界大戦は終結した。

 次回に続く。

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