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2015年11月04日09:59

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人権221〜ヴェルサイユ体制下のドイツ

●ヴェルサイユ体制下のドイツ

 ワイマール憲法が制定される約2か月前、1919年6月にパリでヴェルサイユ条約が締結された。それによってヴェルサイユ体制と呼ばれる戦後国際秩序が形成された。この体制は、戦勝国が敗戦国に報復をし、戦勝国による秩序を固定化しようとするものだった。
 敗戦国ドイツは、不利な講和条約を結ばざるを得なかった。ドイツは海外の全植民地を失った。また軍備を制限され、ラインラントの一部は大戦後も連合軍によって占領された。さらに1320億マルクという巨額の賠償金を課せられた。戦争は集団間の権力闘争であり、勝者は権力によって敗者の権利を奪い、敗者に支配権・収奪権を振るう。敗れた集団の国民は、集団としても個人としても権利を制限・剥奪される。
 戦勝国の報復を受けたドイツは、経済破綻と天文学的なインフレに見舞われた。国民の多数が失業し、生活不安が広がった。ヴェルサイユ体制への反感は高まった。賠償金の支払いは極めて困難な課題だった。1922年後半、政府は支払いの履行政策を放棄した。賠償の一部である石炭の引き渡しが遅れると、フランス、ベルギーは実力行使に出て、23年工業地帯のルール地方を軍事占領した。これによってドイツ国内では社会不安が起こり、ハイパーインフレーションが発生した。
 こうした状況では、憲法に社会権が定められていたとしても、政府は国民に権利を保障できない。国家・国民という集団の権利が確保できていて初めて個人の権利の保障は可能になる。特に社会権は、政府への作為請求権ゆえ、国家が安泰で繁栄できていないと保障できるものではない。
 大戦を通じて世界最大の債権国となったアメリカは、ドイツの混乱を望まなかった。アメリカは、ドイツの経済が回復し、ドイツが英仏等に賠償金を支払い、その支払いを受けて英仏等の経済が活性化し、その英仏等がアメリカに債務を履行するという流れを作ろうとした。そこでアメリカは、24年にドーズ案を提示した。ドーズ案は、ドイツの賠償金支払いに具体策を示し、ヨーロッパ全体の安定を図るものだった。多額のアメリカ資本がドイツに投資され、ようやくドイツ経済は回復の兆しを見せた。それとともにドイツは、26年に国際連盟に加盟し、国際社会への復帰も果たした。しかし、復興過程にあるドイツを、今度は世界恐慌が襲った。
 1929年アメリカで大恐慌が始まった。未曽有の事態に直面したアメリカの投資家は、世界各国に投資していた資金を引き上げた。そのため、恐慌は世界に波及し、史上最大規模の世界恐慌となった。アメリカ経済への依存を深めていた各国経済は、連鎖的に破綻した。その中で特に深刻な打撃を受けたのが、ドイツだった。
 ドイツは、アメリカの多大な資本投資に支えられて、ようやく復興に向かいつつあるところだった。アメリカ資本が引き上げると、すさまじいインフレが起こり、ドイツ国民の約半数が失業状態に陥った。それを見たアメリカのフーバー大統領は、賠償等の支払いを1年間停止するモラトリアムを実施した。それでも、事態は好転しなかった。
 この世界恐慌後の経済的・社会的混乱の中で、ナチスが第1党に躍り出た。ナチスは国家社会主義ドイツ労働者党の略称である。国家社会主義は、イタリアでムッソリーニが始めた思想・運動である。ムッソリーニは、最初イタリア社会党左派に属し、社会主義から学んだものを、ナショナリズムに取り入れた。それが、ファシズムである。ムッソリーニは、軍事的圧力によって内閣を倒し、国王から首相に指名された。一党独裁体制を確立し、言論・裁判・労働組合を監督下に置き、総力戦を効果的に行うための総動員体制を日常化した。ヒトラーは、ムッソリーニのファシズムを独自に発展させた。ヒトラーは、1933年に首相に指名されると、国会で全権委任法を可決させ、当時世界で最も民主的な憲法のもと、合法的に一党独裁体制を確立した。これにより、ワイマール憲法は死文化した。この憲法は正式には廃止されぬまま、空しく人権の陳列を続けた。

 次回に続く。

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