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2014年07月13日08:53

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人権104〜共和制と国民主権

●共和制と国民主権がはらむもの

 ナポレオンの半生は、フランス市民革命の後篇でもあった。1789年の革命開始からロベスピエールの独裁を経て、1799年のナポレオンのクーデタに至る10年を前編とすれば、1799年からのナポレオンの独裁と1815年の敗死までの16年は、それに続く後篇である。1789年の人権宣言は、高らかに人権の理想を打ち出した。だが、それは激動の26年間の最初期の出来事にすぎない。人権の理想の下では、血なまぐさい殺戮と破壊が行われ、その中からナポレオンが出現し、皇帝の座を得ると、ヨーロッパからロシアにわたる戦争を繰り広げた。
 フランス市民革命を、人類の進歩として語る意見がわが国では多い。市民革命によって、主権が国王から理念的に国民に移った。特にそのことが評価されている。しかし、それは、単純な見方である。
 主権の概念は、当初は君主の権力を主権としたものだった。ボダンの主権論では、神法・自然法への服従等の規制によって、権力の行使に抑制がかけられていた。だが絶対君主は、専制政治を行った。これに対し、君主の主権を国民が奪取したのが、国民主権である。君主の主権を奪い取った国民が主権者となった。ただし、主権を行使するのは、権力を掌握した一部の革命指導者であり、ジャコバン派やロベスピエールらだった。国民主権の名のもとに、独裁的主権者に対する反対派は、権利を制限されたり、剥奪されたりした。反対勢力は逮捕・投獄され、財産を没収され、遂には処刑された。国民主権の体制では、主権者である国民の感情や気分によって、政体が変わり得る。革命によって主権者となったフランス国民は、選挙によってナポレオンという独裁者を選任した。主権者による多数決で、独裁者が生まれた。
 ナポレオンが没落すると、フランスは共和制に戻ったのではなく、王政に復帰した。その後もフランスの政体の変遷はめまぐるしい。王政復古の後は、七月王政、第二共和制、ナポレオン3世による第二帝政などと、フランスの政体はめまぐるしく変化し、不安定な時代が続いた。イギリスが、ピューリタン革命の後、君主制議会政治を確立し、安定した体制を形成したのとは、まったく対照的である。フランスがようやく安定したのは1958年、ド・ゴールの第5共和制になってからである。革命後のフランスの歴史を見ることなくして、フランス革命を理想化するのは、愚かであり危険である。
 共和制と国民主権を手放しでよいものとすることはできない。ロシアでは第1次世界大戦後、革命によって帝政が廃止されて共和制に移った後、クーデタによって社会主義となった。理論的にはプロレタリア独裁だが、実態は共産党による官僚独裁となった。しかも、その中から独裁者スターリンが登場し、個人崇拝が行われた。思想警察と収容所による統制が行われた。ドイツでは、第1次大戦後、帝政が廃止され、共和制となった。当時最も進歩的といわれたワイマール憲法のもと、国民投票によって、ナチスが第1党となり、議会で合法的にヒトラーに独裁権が与えられた。それゆえ、共和制と国民主権を無批判に理想化することは、歴史的経験を無視した愚論である。
 イギリス、アメリカの項目で、家族的価値観の社会的影響について書いたが、フランスの中心部は、平等主義核家族が優勢である。平等主義核家族は、遺産相続において兄弟間の平等を厳密に守ろうとするため、兄弟間の関係は平等主義的である。この型が生み出す価値観は、自由と平等である。この家族型の集団で育った人間は、兄弟間の平等から、諸国民や万人の平等を信じる普遍主義の傾向がある。
 フランス革命がおこったパリ盆地は平等主義核家族が支配的な地域なので、自由だけでなく自由と平等を価値とする思想が展開された。人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等な者として出生し、生存する。社会的な差別は、共同の利益のためにのみ設けることができる」と宣言した。フランス革命の普遍主義は、平等主義核家族の価値観に基づくものである。英米と異なり、自由だけでなく、平等を重視する。平等の重視は、政治的にはデモクラティックになり、急進的になる。フランス革命は、またヨーロッパで初めてユダヤ人を解放した。これは普遍主義の理想を追求したものだった。
 イギリスの項目にユダヤ人について書いたが、イギリスでは、ピューリタン革命・名誉革命を通じて、ユダヤ人の自由と権利が確保・拡大された。フランス革命はユダヤ人の自由と権利をさらに大きく拡大した。フランスでは、8世紀のシャルルマーニュ(カール)大帝はユダヤ人を「王の動産」として保護した。ところが、カトリック教会の権威が増大すると、ユダヤ人に対する迫害が進み、1394年には追放に至った。それがフランス革命を機に一転した。人権宣言は、第1条に「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳ったが、これがユダヤ人にも適用されるようになった。1791年9月、国民会議はユダヤ人解放令を出し、フランスのユダヤ人に完全な市民権を認めたのである。フランスで市民権が認められた事実は他の国にも影響し、次第にユダヤ人の平等権が保障されるようになった。
 市民革命によって、ユダヤ人の自由と権利は、大きく拡大された。その変化はキリスト教社会において、彼らが経済活動によって富を蓄え、国家への影響力を持ったことによっている。ユダヤ人の差別と地位向上の歴史は、西欧における人権の発達において、少なからぬ意味を持っている。その点については、本章の横断的な要素の項目に書く。

 次回に続く。
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