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2014年05月24日08:41

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人権97〜イギリスの権利・権力構造

●先進国イギリスの権利・権力構造

 イギリスでは、17世紀以降、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民衆参政主義)が発達した。もともと別の思想だったが、これらが合体して生まれたリベラル・デモクラシーの下で、イギリスのネイション(国民共同体)が形成された。リベラル・デモクラシーは、西欧の政治的近代化の中心思想となった。
 さて、本稿でイギリスと呼んでいる国の正式名称は、「the United Kingdom of Great Britain and North Ireland」すなわち「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」である。イギリスは、かつて大ブリテン島においてイングランド、スコットランド、ウェールズ等の諸国に分かれていた。15世紀末に成立したイングランドのチューダー朝のもとで、ウェールズの併合とアイルランドの植民地化が進められた。イギリスでは、ピューリタン革命、名誉革命を経て、17世紀末のイングランドに国民国家(nation-state)が形成され、1707年イングランドとスコットランドの合同がなり、両国の旗を合わせたユニオン・ジャックに象徴される「グレート・ブリテン連合王国」が成立した。その後、1801年にアイルランドを併合して、現在の連合王国となった。
 通説では、フランス市民革命によって身分制社会が解体され、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトが、自由かつ平等な国民の結合による国民国家を打ち立て、それが西欧に普及したとされる。だが、その前に、イギリスで市民革命を通じて国民国家が登場し、それへの対抗において、フランス等の諸国に国民国家が広がったと考えないと、大きな流れは見えない。ネイションを形成しようとする思想・運動をナショナリズムというが、ナショナリズムもまたイギリスにおいて発達し、これに対抗して、周辺諸国にナショナリズムが勃興したと見るべきである。
 わが国では、共和制・国民主権を理想とするアメリカ・フランス系の思想が世界標準であるかのように、しばしば錯覚されている。実際は、リベラリズムもデモクラシーも、個人主義も資本主義も、国民国家もナショナリズムも、君主制・議会主権のイギリスにおいて発達した。今日の福祉国家の理念を生んだ漸進的な社会改良主義もまたイギリスで発達した。それらの主義が、イギリスから近代世界システムの中核部の諸国に広がった事実が見逃されやすいのは、共和主義及びその過激な形態としての共産主義を進歩的と奉る思想の影響である。
 ところで、イギリス市民革命は階級闘争だったが、そこには民族問題の要素があることを見逃してはならない。イギリスは、民族間支配の征服国家だった。そこで階級分化が起こり、被支配民族から新たな階級が現れ、自由と権利を追求した。ヨーマンリーやブルジョワジーの多くはアングロ=サクソン人だった。彼らの運動には、ノルマン人である国王や貴族に対し、被征服先住民の側から反抗したという一面があった。この権利と権力の闘争の中から、イギリスの近代議会政治が生まれた。征服・支配され権利を侵害された先住民が、支配階級となった渡来民に対して、権利の回復・拡大を求めて戦い、権利と権力の変動と均衡が生まれたのである。
 民族問題の要素は、市民革命期にとどまらない。19世紀に現れる労働党や社会主義の主唱者の大部分はケルト人だった。ノルマン人とアングロ=サクソン人の民族融和の外にあったケルト人から、社会主義に活路を求める者が多く出た。これと対照的なのは、ケルト系のロイド・ジョージが、自由党の有力政治家として活躍し、第1次世界大戦では首相として英国の勝利に貢献したことである。
 イギリスの民族関係は地域間の問題ともなっている。スコットランド、ウェールズ、アイルランドはケルト人が多い。アイルランドは、現在も深刻な民族紛争・宗教対立の地となっている。ただし、イギリスの国家は、民族支配に基礎を置く身分制を残存しながらも、民族間の融和が進み、連合王国として一個のネイション(国民共同体)を形成することに成功している。ネイションの形成をなし得たからこそ、大英帝国の繁栄が得られたのである。ウォーラーステインのいう「近代世界システム」において、イギリスは中核部に位置する。この広大な植民地を持つ帝国の本国では、その国民の特権として、自由と権利が拡大されたのである。イギリスのリベラル・デモクラシーは、植民地から収奪する富の上に発展したものだった。本国における労働者や下層階級もまた中核部の国民としての恩恵を受けていた。先住のケルト人や外来の民族であっても、リベラル・デモクラシーのもとに富と権力を得ることができたのである。
 19世紀後半、マルクスは、所有を中心に社会を分析した。そしてイギリスを始め、資本主義の先進国における階級闘争による共産主義革命を煽動した。だが、権利と権力の関係は、所有関係だけでなく、支配関係からも見ないととらえられない。マルクスが分析した近代資本主義発祥の地における権利と権力の変動には、民族問題が深く絡んでいたのである。
 イギリスの民族問題には、他の西欧諸国の多くと同様、ユダヤ人の問題もある。先にドイツ30年戦争の項目に書いたが、中世のヨーロッパでは、キリスト教に改宗しないユダヤ人は異教徒として差別され、市民権を与えられず、職業は金貸し、税の集金等に限定された。13世紀までには、ユダヤ人はイエスを磔刑に処し、死に至らしめた罪により、永久に隷属的地位に置かれるべきだという教えが、カトリック教会で確立された。イギリスでは、1290年にユダヤ人が追放された。以後、公式に撤回することはなかったが、17世紀後半になると事実上、ユダヤ人の居住を再び認め始めた。彼らの経済的能力への評価による。ピューリタン革命は、ユダヤ人に対する政策が再検討されるきっかけとなった。清教徒たちは、英訳の旧約聖書を読み、ユダヤ人に尊敬の念を持つようになった。クロムウェルは、ユダヤ人の経済力が国益にかなうという現実的判断をし、寛大な政策への道を開いた。王政復古後のチャールズ2世も同様にユダヤ人に対して正式に居住を認めた。理由は、イギリスの商人を守るよりユダヤ人を保護する方が経済的にずっと大きな利益が得られると判断したからだった。こうして17世紀末までには、ユダヤ人が正式にイギリスに住むことが出来るようになった。
 名誉革命は、さらにユダヤ人の地位を高めた。名誉革命は、オランダからオレンジ公ウィレムを招聘して、国王を交代させたが、そこにはユダヤ人の関与があった。1688年ウィレムが英国に出兵する際、オランダのユダヤ人ロペス・ソアッソ一族が経費を前貸しした。新国王が誕生すると、大勢のユダヤ人金融業者がロンドンに移り住んだ。ロンドンではウィリアムの時代に金融市場が発達したが、その創設にはユダヤ人が関った。その後のシティの繁栄は、ユダヤ人の知識・技術・人脈によるところが大きい。私は、大英帝国の文化は、単にアングロ・サクソン文化というより、アングロ・サクソン=ユダヤ文化というべきだと見ている。
 権利と権力について言えば、今日もイギリスは立憲君主国だが、主権は国王と貴族院・庶民院で構成される議会にあるとされる。これを「議会主権(Parliamentary Sovereignty)」という。君主は「議会における国王(または女王)(King [or Queen] in Parliament)」と呼ばれる。議会は、集団の意思の合成のための機関である。国王と貴族・庶民の代表者が意思を合成して、意思決定をする。その機関に主権があるということは、国王と国民が統治権を共有している体制と見ることができる。イギリスの議会主権は、国王主権とも国民主権とも違う形態だが、国王をその国籍によって国民の中に含めれば、君主制は広義の国民主権となる。国民主権には、こうした君主制による広義の国民主権と共和制による狭義の国民主権がある。前者は君民共有主権と呼ぶこともできる。君民共有主権の国民国家では、君主を特別の身分とするから、国民は皆平等という単純な平等論は成り立たない。
 イギリスには、中世以来の身分制が存続しており、議会は貴族院と庶民院で構成されている。国民の権利の調整を行う司法では、貴族院が「最高裁」の役目も負っている。イギリスには成文憲法がなく、法律より慣習が優先され、「良き伝統」という概念が重要とされる。貴族院が、これが「良き伝統」であると判断すれば、それが基準となる。この基準によって、権利と権利の衝突の調整をする。こうした「良き伝統」を否定するような人権の概念は認められない。近代化の先進国イギリスの実態は、以上のごときである。
 宗教についても、イギリスは英国国教会を「国教」と定めており、英国王は国教会の首長である。またこの宗教的伝統は権利を守る根拠とされている。市民革命の動機の一つは、信教の自由を守ることだったが、国教会以外のキリスト教宗派のほか、ユダヤ人の信仰するユダヤ教にも一定の自由が保障されるようになった。現在イギリスでは国教会の教徒が国民の4割以上を占める一方、他の宗派や宗教を信じる自由は保障されている。
 上記の議会主権及び国教と信教の自由については、十分注意する必要がある。イギリスは、こうした伝統を保ちながら、今日の世界で最も良く自由と権利が最もよく保障されている国の一つである。それは、自由と権利の拡大には、普遍的・生得的な人間の権利という思想は、必ずしも必要がないことを示していると言えよう。

 次回に続く。
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