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2014年05月11日08:32

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人権95〜市民革命の始まり

●市民革命はイギリスのピューリタン革命に始まる

 前章に書いた西欧における中世から近代初期にかけての主権・民権・人権の歴史に続いて、これから市民革命の時代から20世紀初めにかけての歴史を書く。その中で権利・権力の変動を見ていく。まず本章では市民革命をイギリス、アメリカ、フランスの順に見る。次に、西欧各国を横断的に共通する要素について述べる。
 さて、17〜18世紀にかけてイギリス、アメリカ、フランスで市民革命が起こった。イギリスのピューリタン革命で封建的身分の特権を否定する自然法に基づく権利の理論が表れた。アメリカ独立革命の独立宣言でイギリスの「臣民の権利」の歴史性が否定されて、権利は神授のものとされた。フランス市民革命の人権宣言でも権利の神授性の論理が維持された。こうして歴史的に発達した権利が、普遍的・生得的な人権という概念で理解されるようになった。
 だが、近代西欧的な権利は、西欧各国の歴史の中で形成されてきたものであり、また権利の概念、内容、それを保障する法制度は、国や時代によってさまざまである。すなわち、人権という概念の実態は、各国の国民の権利である。
 ヨーロッパ大陸で新旧両教徒が争ったドイツ30年戦争が終結に近づいていたころ、周辺のブリテン島で市民革命が起こった。ピューリタン革命である。ピューリタン革命は1640〜60年にかけて展開され、王政復古の後、1688年には名誉革命が起きた。これら2度の革命によって、イギリスの絶対王政は終焉を迎え、議会による君民共治の政体が実現した。その過程で、国王の主権は国民と共有されるものとなり、同時に人間は生まれながらに自由であり、平等な権利を持つという人権の観念が発達した。
 マグナ・カルタ以後、16世紀のチューダー王朝までの間は、王権と臣民の権利の均衡の原則が機能していた。ところが、17世紀初めスコットランドからイングランドに来てスチュアート王朝を開いたジェームズ1世は、絶対王政を敷いた。ジェームズ1世は法律に拘束されない王権の行使こそ真に自由な政治であると主張し、従来の慣行を無視して国王の大権の行使を主張し、議会との衝突を繰り返した。
 イギリスでは、封建制の解体が西欧で最も早く進んでいた。17世紀に入ると、ジェントリー(郷紳)やヨーマンリー(独立自営農民)が市民階級を形成し、議会に進出して政治的な影響力を持つようになっていた。またブルジョワジー(中産階級・商工業者・資本家)が成長し、私有財産等の権利を主張していた。彼らの多くは、カルヴァン派のプロテスタントだった。
 ジェームズ1世の子、チャールズ1世は、スコットランドに国教会を強制しようとした。これへの反発からスコットランドで反乱が起こると、国王は戦費調達のため、1640年に議会を召集した。これをきっかけに、ピューリタン革命が始まった。
 議会では、王党派と議会派が激しく対立し、1642年に内戦状態になった。その中で個々の教会の自主独立を説く独立派が勢力を強め、独立派から徹底抗戦を主張するクロムウェルが台頭した。49年に議会の決議によりチャールズ1世が斬首刑に処され、共和制が樹立された。ウェストファリア条約で西欧に主権国家体制が誕生した翌年だった。クロムウェルは、53年に護国卿となって独裁政権を樹立した。
 この時代の思想家として知られるホッブスは、革命の最中にオランダにいた。絶対王政を擁護する理論を著述した。それが『リヴァイアサン』である。ホッブスは、原始的な自然状態は、「万人の万人に対する闘争」であるとする。人々は生命を奪われる恐れから逃れようと、社会契約によって権利を主権者に委譲し、国家を作るという社会契約論を説き、専制君主を支持した。一方、この対極となる主張をしたのが、水平派である。クロムウェルは「新しい型の軍隊」(New Model Army)を指揮して内戦を制した。その軍には合議制の組織ができ、全員参加で意思決定をした。兵士たちの一部は水平派(Levellers)という急進的な政治結社に参加した。水平派は生得権(Birth right)を主張し、身分ある者の特権だった自由に対し、万人が平等に持つ自由を主張した。人民主権の成文憲法や普通選挙を主張した。だが、1649年クロムウェルの弾圧により、水平派は消滅した。イギリスでは、水平派のような思想は、以後大きく伸長しなかった。

 次回に続く。
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