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2014年04月06日13:27

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フィクションの中へ(36) 大江健三郎の社会活動家「懐かしい年への手紙」

 大江の小説にはギー兄さんと命名された社会活動家のキャラクターが登場する。ただし、同一人物ではなくて、その都度死んで、次の人物に襲名して引き継がれるキャラクターである。最初の登場は「万延元年のフットボール」での隠遁者ギーだった。

 社会活動家としてのギー兄さんは「懐かしい年への手紙」講談社1987、「燃え上がる緑の木」、「宙返り」と続いているが、ここでは「懐かしい年への手紙」をとりあげる。
 ストーリーは、作者をモデルとしたKの半生と、Kより5歳年上の村の資産家の息子で、Kの師匠(パトロン)のギー兄さんとの二人の成長と活動を描いたものである。Kの成長という面では教養小説というべきで、大江の小説群の自註・自解の評論小説でもあるのだが、ここでは、社会活動家であるギー兄さんの挫折の物語としての側面に絞って検討する。

 この簡単な説明からも、複雑で入り組んだ小説であることが分かると思う。Kという命名も、作者の健三郎を指し示すと同時に、カフカの主人公を連想させるものでもある。ただし、殺される「審判」のKに対応するのはギー兄さんで、城のある街へ測量に行く「城」のKに対応するのも、故郷の峡谷山村で村づくり運動を始めるギー兄さんであると考えられる。

 問題は、ギー兄さんの生涯が挫折の物語だということである。最初の挫折は、戦時中には、出征した兵士の母親たちに頼まれて、千里眼として兵士たちの生死を予言したのだが、それがでたらめだったというので、帰省した青年たちに介添え役だった家政婦との性交ショーを強制されたことである。もともと、美少年だったギーに女装させて、家政婦がきゅうりを付けて肛門性交しているとの噂があったのだが。つまり、ギー兄さんは大江特有の「性的人間」なのである。
 第二の挫折は、安保闘争で右翼暴力団によって頭に傷を負い、闘争の敗北とともに故郷の村に戻ってきたギー兄さんは、舞台俳優の女性を愛人として連れていたのだが、たぶん、日本全体の革命をあきらめ、故郷に「新しい村」をつくりこととした。ギー兄さんは資産家なのである。しかし、どういうわけか、愛人を強姦し殺害したという罪で10年の懲役刑を受けることになってしまった。
 最後に明らかにされるが、ギー兄さんと生き方について争いとなった愛人が、走る車を飛び出して重傷をおってしまった。彼女の苦しむのを見て、安楽死させるためとどめを刺したというのである。だから、強姦はしていないのだが、自己処罰のつもりで自白したのだろう。刑期が短いようなのは、きゅうりを肛門に挿して自殺を図っているので、反省を認められたからだろう。フロイトなら肛門期への固着というかもしれない。
 そして、ギー兄さんが死ぬことになる第三の挫折は、懲役を終えて帰って来たギー兄さんは人造湖を作ろうとする。途中までできていた「新しい村」をダムで沈めてしまうものだが、村人たちは決壊を恐れて反対し妨害活動をしていた。その時、癌が発見されて手術し人口肛門を付けたギー兄さんは、事故だか殺人だか、湖で死んでいるのが発見される。
 手術を終えたギー兄さんは人工肛門なので臭かったというのである。「カラマーゾフ」のゾシマ長老のつもりなのか、何のためのグロテスク・リアリズムなのか分からない。

 要するに、分からないのは、故郷の大瀬をモデルとした山村で村づくりをする人物を、ここまで貶めて挫折させる必要があったのか、である。ブレヒトの「異化作用」とは個人崇拝の危険を避けるために、いわば、英雄の日常を知っている「下男の目に英雄なし」の描写を追加するものなのでなかったのだろうか。ギー兄さんはなぜこれほど異化作用される必要があったのか。

 ギー兄さんが英雄的だとすれば、Kの師匠として、村の、そして小説家になったからも外れ者だったKの危機を的確な助言で救っていったことにあった。実際にモデルがいたとしても、それは合成されたものであったろうし、しかもその中心となるのは作者自身であったに違いない。だから、異化せねばならなかったのか?
 もう一つ考えられることは、結局、ギー兄さんを生かさない「大瀬」の批判だという面である。維新前後の一揆では、オコフクだとか、メイスケさんなどトリックスターが現れるが、ギー兄さんも、彼らに比べてあまり幸せでないが、トリックスターなのだろうか?

 いくつかの注釈を付けておく。
 「美しい村」というのは、武者小路実篤ではなく、柳田国男からの引用であった。残念ながら、どの著者か書かれていないので分からない。

 題名の由来は、「「懐かしい年」、これからもそこへ帰って見れば、若かったギー兄さんがいる。都会の生活へ向けて失われなかった、もっと若い僕自身も。さらには烏山福祉作業所の知恵遅れの工員ではなく、美しい知にみちた子供のヒカリも。(堕ちた世界にいる現実の)僕はその「懐かしい年」に向けて手紙を書く。・・・」(p121)という散文詩のような文章からきている。
 ついにいなかった人々が、できなかった美しい村にいる。このいわば、イデアの世界へ向けて大江は小説を書いている、ということのようである。まるでヨースタイン・ゴルデル「ソフィーの世界」であるが、むろん、ソフィーの場合には、大江のように「懐かしい年」と「堕ちた世界」と言わねばならないほど悲劇的に隔絶した世界ではなかった。

 大江は若いころの初期作品で、子供っぽい人間と評されたらしい。そのことについてのギー兄さんの助言は、Kが十歳の子供の時にも、仲間から子供っぽいと言われていたことを思い出させて、それは生涯付いて回る性格だから、直そうなどとせず、それを引き受けて、そのまま年をとって子供っぽい老人になれ、というものだった。モーム「人間の絆」で、主人公はモームの吃音をえび足に置き換えられている、ことも併せて指摘した。(p135-136)
 そう言われれば、「人間の絆」でも、主人公が最後にたどりつくのは労働者の一家ではあるが、明るく賢明な人たちであり、その娘と結婚することになっていた。パブリックスクール出の主人公とは身分違いなのだが、「ここに幸あり私は生きる」物語、だった。

 国民学校の5年生で級長だったKは、神社の拝殿で校長が戦果や反撃について語るのを、列の先頭で聞いていて、そのおかしさを抑えきれなかった。そのため、いつも校長から殴られていたのだが、ギー兄さんの助言は、その時、本当に悲しいこと、森が燃えてしまう、そういうことを想像してみよというものだった。本当に恐ろしくなったKは、夢に百匹の大猿が焼け死んでいるのを見た。ギー兄さんは、それは人のことだ。恐ろしくて無意識に大猿に変えたのだろうと、教えてくれたという。(p141-142)

 これらのエピソードは、郷里へのひいては日本への愛憎の憎の部分が大きいことを示していると思う。イデアの世界はるか、である。日本風にいえば極楽浄土だろうが。
 わざわざ柳田国男を援用しているのも気になるところではある。吉本隆明「共同幻想論」との関連があるのだろうか?

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