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2014年04月02日15:52

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フィクションの中へ(35) 大江健三郎のポジティブな人間像「個人的体験」

 大江の描く主人公でポジティブであるのは、「個人的体験」1964 のバードしか思い浮かばない。障害を持って生まれた子に対する迷いと引き裂かれた心を、元の愛人や勤務先での失態をとおして描き進み、共に生きていこうと決心するクライマックスは感動的であるし、読者も、自分もそうなった時に、との思いを共有したと思う。
 ここには、大江の多用する異化作用も、性的犯罪もグロテスク・リアリズムもない。むろん、障害児がグロテスクに見えて、医者が失笑したという場面は、その一場面だけで同情心のない心のグロテスクさを描き出して余りある。

 ここで、「個人的」というのは逆説的であり、読者への重い問い掛けであると言わざるを得ない。自分ならどうするのか、それぞれが「個人的」責任に思いを致さざるをえない。したがって、直ちに「社会的・共通的」局面へと反転するに違いない。
 バードという命名は、山上憶良「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」を思い出すし、この反歌を含む全体は「貧窮問答歌」という社会性のある歌であった。ついでに言えば、1967年であるが、ベトナム戦争時の航空母艦イントレビット号からの脱走兵が山上憶良を記者会見で語っていたことを思い出す。

 「万延元年のフットボール」1967 の内容は、障害児を持ち、安保闘争に挫折した根所蜜三郎と鷹四の兄弟が四国山村の故郷に戻る。そこには維新前後の一揆を曾祖父兄弟が指揮し、弟の方が逃亡したという不名誉な伝承があった。ここで、鷹四は、スーパーマーケットの天皇とあだ名される在日朝鮮人の経営者への暴動を指揮し、挫折して肛門にきゅうりを挿しこんだ形で自殺した。その後、兄弟の実家が解体されたとき、曾祖父の弟は逃げたのでなく、隠し部屋に籠って指揮し続けていたと様子を記した日記が発見された。(内容に記憶違いがあるかもしれない。)

 ここには、幾重にも重なった異化作用が認められる。山村の人々に憎まれている天皇は在日朝鮮人だというが、この複雑骨折のような設定の意味が分からない。鷹四のゲイ・マゾ自殺は、日本人の性的人間(アメリカの牝)性を現わしているのだが、1970年の三島由紀夫事件を予言しているのだろうか。

 大江の維新前後の先祖が一揆を指導したというのはフィクションである。「厳粛な綱渡り」では、戦時中大江の兄が予科練志願したこと、弟の征四が警官になったことについてのエッセイがおさめられている。自衛隊を日本の恥と公言していた大江としては、この二つは一族の恥だったに違いない。「万延」の入り組んだ構造には、作者の複雑な心情が反映されていると思う。
 大江の和紙製造を業とする父は終戦前に死に、戦後は七人ほどの兄弟姉妹を母が一人で育てたのであって、当然、家は貧しく、くわしい家族関係は書かれていないが、東京の大学へ行ったのは作者一人だったらしい。後は、四国の故郷を離れることはなかったと、どこかで書いていた。

 ということで、「万延」でのポジティブな人物は曾祖父の弟であって、作者兄弟をおもわせる主人公は、いずれもネガティブに描かれている。「異化作用」、「グロテスク」に「性的人間」という視点・手法は作中人物を貶めるためのものなのだろうか。

 確かに、ブレヒト「三文オペラ」では、主人公の匕首マック(メッキー・メッサー)は、自由人としての悪漢というヒーロー像が壊されて(異化されて)、死刑直前に国王の恩赦を受けるというアンチ・クライマックスであった。
 今村昌平「豚と軍艦」ではやくざの幹部の丹波哲郎をかっこよくしないために、癌で余命がないと誤解した丹波が未練たらしくのたうちまわるところを描いていた。だから、早い話、異化作用とは観客に感情移入させないための一種の教育効果を狙ったのものなのでなかろうか。わずかな例ではあるが。

 大江の場合は悪漢ややくざではないのだが、アメリカ支配に甘んじているという状況を示すための主人公の貶め(異化作用)だと思われる。もっとも、ギー兄さんと命名された社会活動家の登場する小説群でも、ギー兄さんも異化作用を免れることはない。この点はまだ分析できないが、仮説的に言うと、かって毛沢東を崇拝していた大江が、文化大革命を見て、個人崇拝につながるものは芽のうちに摘んでしまうという強迫観念、つまり、「芽むしり仔撃ち」のようなことを率先垂範しているのかもしれない。

 「グロテスク」という概念も、本来は「祝祭」の一環のものなら、にぎやかな祭りの付属物という程度の位置づけだと思うのだが、大江の場合は主人公の鷹四を覆してしまうほどの威力があった。「神は与え奪い給う」のように、大江は作中人物に対して神の位置にいるのでないか。

 もうひとつ言えることは、「万延」は「個人的体験」の異化作用だとの関係がみえることである。「個人的」にはほとんど異化作用がなかった。主人公の苦しみはすなおに了解できる。大江的にはそれが問題だった。そこで、「万延」では蜜三郎にバードの異化作用を与えたのに違いない。
 どうやら、大江にはポジティブな人間像はありえないらしい。このことが、大江の小説の分かりにくさの大きな要因だと思われる。

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