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2014年03月27日10:32

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フィクションの中へ(32) 大江健三郎「厳粛な綱渡り」

 大江健三郎という謎の小説家が創造された経緯を探るにあたっては、その原点ともいうべき最初の評論集「厳粛な綱渡り」文芸春秋1965 に、まず当たるべきであろう。などと言えば、サルトル「嘔吐」で主人公が、中世の謎の政治家の行動を探るために、その政治家がかって活動した都市へ取材にいくみたいだが。
 この評論集は、50年近く前の学生時代に愛読していたのであるが、実は、1、2年後にでた「万延元年のフットボール」1967 を最後に大江を読むのをやめたのである。腹いっぱいになってしまったのである。それから時代が飛んで、定年退職後に至って、その後に執筆されたものをブックオフで集めては読んでいたのだが、やはり原点に戻るべきと思った次第である。

 この評論集は、大江が作家となった後の20歳代に書かれた評論が集めてある。最後は、代表作「個人的体験」を出版し、ノーベル賞を受けた「万延元年のフットボール」を執筆中であるとの記述で終わっている。評論は多岐にわたっているが、政治との関係、彼の主題とした「性的なもの」の部分を中心に見ていくことにする。

 大江の政治的意見は単刀直入で、今もそうなのだが非常に分かりやすい。反体制(反自民党)、反天皇制である。なぜなら、その状況の中で青年たちが苦しんでいるからである。あるいは偽りの安逸にふけっているからである。目指すところは「明るい目をして」自信をもって、社会や国を作る青年を作ることであり、現在の(当時の)日本の青年の醜さをえぐり、あるいは犯罪者となった少年の苦しみを描くことにあったようである。

 「純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する・・・隣の独房では幼女強制猥褻で練鑑にきた若者がかすかにオルガスムの呻きを・・・」
 これは、唯一書いたという、冒頭の6行の詩であるが、これで、かれの政治的意見も小説の目指すところも、ほぼ言い尽くされている。後は、障害児の長男との生活をつけたせばよいだけだ。
ただし、少年時代からの自然感応力や音楽や絵画を含めて芸術的素養の深さ、そこから生まれる描写の広がりによって、ただのプロパガンダでない感動を与えているのだと思う。むろん、政治性のほとんどない「個人的体験」は最高の達成だし、逆に政治性にとりくんだ「万延元年のフットボール」は、藤村「夜明け前」を思わせるような四国の山村の歴史ロマンによって、必ずしも、大江の意図とは違うところで評価されているのだろう。

1.「ご成婚の日、空には花火が上がり、人々は提灯行列をするだろう。・・・しかし、・・・天皇制と日本人の未来について考えるべきだし、皇太子にもそれを考えていただきたい。同じ日本人の若者が、同じテーマで考える、これはあたりまえのことだから。日本の民衆はいつまでも酔っていない。」(p39)

2.「大瀬国民学校のひにくれ者の生徒だったぼくは毎朝、校長から平手でなく、拳でなぐられていた。・・・ぼくはこんど中国旅行に出るが、北京の青年に集団農場についてたずねられたら、日本の農村でも戦後数年は、その希望があった、と答えたい(注:小学校の農場のことらしい)」(p76)
・・・戦時中の校長に対しては自由を主張していたのに、中国にはいらないらしい。もっとも、大江だけでなく、当時、中国に招かれた仏教の指導的僧侶たちは、帰国後の新聞に、日本と違って中国の人々は喜びをもって国土建設に邁進していた、という感動の紀行文を書いていた。自由の価値は低かったようだ。

3.「ナジの処刑について論議がさかんだった。・・・しかし、政治的にいってナジの処刑は日本人にそれほど切実な問題だったか(注:ハンガリーの首相。1958年にソ連からの独立を求めたハンガリー動乱の責任者としてソ連が処刑した。)」(p81)
・・・社会党、共産党を影響下に置いていたソ連の本性が暴かれた大事件だった。

4.「(大江にたいして、堂々と実名をつけて反論してくる)再軍備派の人たちが、反再軍備派の人たちに対して肩身の狭い思いをしなくなり、そういう危険な風潮が一般化し始めている」(p83)
・・・大江は再軍備の意見は民主主義の外にあると思っているようだ。

5.「(新聞記者の)カナダ人が中国で得た印象(これほど政治が生活の隅々までゆきわたっているのではやりきれない)・・・ぼくはこの穀つぶしのカナダ人を軽蔑した。」(p103)

6.「終戦直後の子供にとって戦争放棄という言葉がどのように輝かしい光をそなえた憲法の言葉だったか。・・・日本は戦いに敗れた。しかも封建的なものや、非科学的なものの残りかすだらけで、いまや卑小な国である。しかし、と教師は、突然に局面を逆転させるのだった。日本は戦争を放棄したところの、選ばれた国である。」(p133)

 以上、政治的な問題発言をピックアップしてみた。もっとあるのだが、こんなところで十分だろう。
まさに天馬空を行く勢いであるが、この遠慮会釈のないというか反省のない、つっこまれても仕方のないものいいは、大江が社会の中に葛藤をもちこむための意図的なものだったとおもえてきた。当然ながら、怒りの反論がたくさん寄せられたとのことである。今となっては、大江は保守反動家の攻撃を身に受けて、その痛みに苦しみながら次の著作を構想していたような気がするのである。
 大江攻撃は左翼の側からもあった。浅沼社会党委員長を暗殺し、逮捕後自殺した山口二矢事件に取材した「セブン・ティーン」の続編「政治少年死す」を右翼団体の抗議で絶版にしたことで、朝日新聞の本多勝一が大江をなじり続けたとのことである。そのことは、大江の小説の中にも本多の名を匿名にして取り入れられている。かなり苦しかったのだろう。
しかし、これが大江流の社会参加、アンガージュマンだったにちがいない。江藤淳いうところの「作家は行動する」の一環だったのだろうし、ネタとりでもあったのだ。

 5番のカナダ人の件であるが、穀つぶしではなく西欧人の一般的な反応に違いないのだ。大江には西欧人の友人が多いはずなのに何を見ているのだろうか。ロシア革命に共鳴したアンドレ・ジッドはソ連を訪問して、その社会にしたたか失望して、社会主義を放棄したのであるし、フランス人の企業人だったかが、ソ連に家族で滞在していて、自分の子供が父親の交通違反を警官に申告して驚かされたということだった。ソ連の教育をうけて、本来の自由人のフランス人気質を失ったことがショックだったらしい。
これで、日本人がいくらソ連や中国へ行っても、賞讃しかしなかった理由がわかる。つまり、個人の自由などということはあまり関心が無いのである。むろん、自身が拘束されたら別だろうが、ソ連や中国人の生活の中の自由などには目がいかなかったのだ。

 6番も問題である。ここで描かれているような教師は結構いたと思う。私の小学校の時にもこんな先生が担任だった。剣道の有段者で熱心で人気のある先生だったが、日本についていうのは、剣道以外は欠点の指摘ばっかりで、日本人であることが厭になるほどのものだった。これが、ニーチェのいうところの、敗北したものの行きついたルサンチマンによる信念なのだろう。

  以上、このあたりで、大江の政治思想の点検をおわる。きりが無く、くたびれた。「性的人間」などの文学については続編で。

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