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2014年03月24日08:47

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人権88〜近代主権国家の誕生

●ウェストファリア条約と近代主権国家の誕生

 ドイツ30年戦争で、キリスト教徒同士が際限のない戦争を続けた。ドイツの人口は、3分の1に減ったと言われる。30年戦争のさなか、オランダのフーゴー・グロティウスは、『戦争と平和の法』(1625年)を刊行した。グロティウスは、当時神の意思による宇宙と社会の秩序とされていた自然法を、「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると説いた。これは信仰よりも理性を重んじる近代的な解釈である。そしてグロティウスは、人間理性に基づく人定法として、国家法のほかに万民法があるべきことを主張した。万民法は、国家間・国民間に共通の法であり、今日の国際法に当たるものである。そのグロティウスの思想をもとに結ばれたのが、ウェストファリア条約である。なお、自然法については、後に市民革命の章であらためて述べる。
 ウェストファリア条約は、戦局で優位に立ったフランスの主導で交渉が進められ、1648年に調印された。この条約は、宗教的側面から見れば、アウグスブルグの和議を再確認したに過ぎない。新旧両教徒の同権と相互尊重の原則を回復し、新たにカルヴァン派が加えられた。これによって、領邦君主は信教の自由を確立した。教皇の権威は低下した。一方、領主の信教の自由は、領主と宗派が一致しない領民には、信教の自由の侵害となった。彼らは、集団的に改宗を強制された。
 またウェストファリア条約は、政治的側面から見れば、約300のすべての諸侯国の主権を保障するという画期的なものだった。諸侯は、帝国の諸侯間だけでなく、外国とも同盟を結ぶことができ、交戦権も持つことになった。このことは皇帝権の大幅な縮小を意味する。諸侯の権力は、宗教的にもまた政治的にも、皇帝と帝国に敵対しない限りにおいて認められた。領邦の大小に関わらず、すべての諸侯が同権を持つ体制となった。この条約に西欧の66カ国が調印した。国際条約の初めである。ドイツ諸侯や周辺諸国の国王の主権が制度的に認められたわけである。
 神聖ローマ帝国は、事実上崩壊状態となった。様々な独立国家に分裂したと等しい状態となった。それと同時に、西欧に近代主権国家が誕生した。多数の主権国家が併存する関係が、法的な秩序として定着した。西洋文明は、中世の教会と帝国の二元的な社会から、主権国家が並立する近代的な国際社会に変わった。中世のヨーロッパは、国境のない一つの文明社会だった。教皇と皇帝という二つの頂点のもとに、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在していた。その社会が、主権を備え、国境を持つ国家が互いに対等な関係を結ぶという新しい社会に変わった。教皇権・皇帝権が後退し、国王権が伸長して、近代的な国家主権となった。ただし、教皇の権威と皇帝の権力が全く否定されたのではない。後者は主権国家体制の中に、新たな性格を持って組み込まれたのである。主権は、教皇と皇帝から諸侯・諸王へと移譲されたが、教皇の主権と皇帝の主権も存続しているから、主権の所有者が多元化したのである。同時に、主権の性格が変わったのである。
 ウェストファリア条約によって誕生した主権国家は、それまでの西欧の封建制国家とは、明らかに異なる。近代国家は、国境で区画された領域内において、主権者が最高の統治権を持つ。領域内に政府の権力に従わない政治的権力を認めない。主権国家と主権国家は、国境で互いに接する。
 ウェストファリア体制のもと、英仏等では主権国家が発展した。一方、ドイツは小国群立のため、後進地域となった。神聖ローマ帝国は、死に体ではあったが、形の上ではその後も存続した。フランス市民革命から台頭したナポレオンが帝国の西部・南部諸侯にライン同盟を結成させたため、1806年皇帝フランツ2世は帝国の解散を宣言した。その後も、ハプスブルグ家によるオーストリア帝国は1918年まで存続した。神聖ローマ帝国終焉後のドイツが統一されるのは、1871年、プロイセンが主導する時を待たねばならなかった。
 国家は主権の及ぶ範囲の地域的な組織であり、主権とはその国家の政府が内外に主張する統治権である。この統治権の所有者が、国王から国民に拡大されていく過程で、人権の観念は発達した。その点を見るには、神聖ローマ帝国を中心とした見方から、西欧全体へと視野を広げねばならない。

 次回に続く。
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