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2014年03月08日08:41

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人権86〜西方キリスト教の宗教改革

●西方キリスト教の宗教改革

 16世紀初め、西欧で宗教改革が起こった。宗教改革は、信教の自由を求める運動だった。信教の自由の希求が、社会に巨大な変革を引き起こした。宗教改革とは言っても、キリスト教内、しかも西方キリスト教における改革にすぎないが、この改革によって、ドイツ30年戦争が起こり、教皇権と皇帝権の並立状態が打破され、近代主権国家が登場した。また、イギリスでは、市民革命が起こり、国家主権の権力主体が君主から君主と国民に拡大され、君主の主権が君民共有の主権へと変化した。こうした権力の変動の中で、人権の観念が発達した。ドイツ30年戦争を終結させたウェストファリア条約とイギリス・ピューリタン革命は、主権と民権と人権の歴史におけるメルクマールとなった。
 第2章に書いたように、人権の核心には自由がある。人権の観念は、自由への権利意識に基づく。信教の自由の獲得が、近代西欧的自由の発達の初めとなった。プロテスタンティズムであれ、カトリックであれ、英国国教会であれ、国王や領主による信教の強制に対しては、人民から反発が起こった。信教の自由の希求なくして、人権観念の発達はない。
 宗教改革は、どのようにして起こったか。歴史をさかのぼると、西欧では、13世紀末からイタリアでルネサンスが始まった。文芸復興をきっかけに、それまで古代ギリシャ=ローマ文明の思想や技術を継承・発展させていたイスラム文明から、多くの文化要素が摂取された。それによって、聖書の言語学的研究が進んだ。教会が独占するラテン語の公定聖書への疑問が湧いた。また、教義だけでなく、教会のあり方に対する疑念が深まった。その焦点となったのが、罪の償いが免じられるとして乱用された免罪符だった。
 1517年、マルチン・ルターが免罪符に関する95か条の提題をヴィッテンブルグの教会の門扉に掲げた。これが西方キリスト教改革の初めとなった。ルターに続いて、カルヴァンも1536年からスイスで教会の権威に異議を唱えた。彼らの改革運動は、各国に広がった。
 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。それによって、古代ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化が進んだ。また、キリスト教の民族化やナショナリズムの形成にも発展した。
 キリスト教改革が本格的に開始された場所は、神聖ローマ帝国だった。この事実は、重要である。教皇が戴冠する皇帝が統治する地域で、カトリック教会批判が起こったのである。帝国内の各地で、プロテスタンティズムに改宗する諸侯や都市が現れた。1529年、シュパイアー帝国議会でルターを支持する5人の帝国諸侯と14の帝国都市が、皇帝5世の「異端根絶」の提案に激しく抵抗つまりプロテストした。以来、諸侯と皇帝カールの戦いは、政治的抗争となった。
 教皇と皇帝は、諸侯の要求を入れざるをえなくなり、1555年にアウグスブルグの宗教和議が調印された。和議のスローガンは、「領主の宗教は領民の宗教!」だった。ルター派の主張が全面的に認められ、新教徒と旧教徒は同権であり、互いに相手の立場を尊重することが合意された。各領邦の宗教は、君主が選択することとなった。人権の重要な要素である信教の自由は、まずこうした限定的な形で獲得されることになった。このとき、プロテスタント諸侯は、領地にあるカトリック教会をプロテスタント教会にし、莫大な財産を自分のものにした。和議にいう宗教はカトリックとルター派に限定された。カルヴァン派は異端のままだった。

 次回に続く。
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