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2014年01月24日08:38

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韓国が認めないベトナムでの残虐非道2

●ベトナム戦争時代の告発

 ベトナム戦争における韓国軍の暴虐は、戦争の最中から、海外に伝えられていた。アメリカのジャーナリスト、デビッド・コンデは、1969年(昭和44年)刊の著書『朝鮮――新しい危機の内幕』(新時代社)で、韓国軍の蛮行を伝えた。

 「1965年の9月と10月に猛虎部隊と青竜部隊の両師団がベトナムへ上陸した。『索敵殺害――"殺し尽くし、焼き尽くし、破壊し尽くせ"という作戦―』のなかでも最も残忍無比なことをやってのけたのは、他ならぬこれら両部隊だったのである。次に掲げる詳細なリストは、ハノイの日刊紙ニャンザン(人民)を含む、ハノイを通じて中継された解放民族戦線の報道に基づいたものである。
 1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。
 1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。『ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ』こう言ってのけたという韓国軍将校の話しが引用された。ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。  1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。
 1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、勇猛な朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。ブガツ省では、3万5千人の人たちが、死の谷に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。
 放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。これは、たった一都市に起きた南京大虐殺どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日のベトナム民族大虐殺なのである。つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。
 (中略)なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、彼らが、アメリカが与えてくれた援助に対してお返しをするためであり、さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、アジアにおいて平定の役割を演ずることができるのだという誇りと確信の感情を与えるためである、と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した」

 後ろから2番目のパラグラフに「たった一都市に起きた南京大虐殺どころの話ではないのだ」とあるのは、著者コンデが「南京大虐殺」を史実と誤解しているものだが、東京裁判で捏造された「南京大虐殺」が一つの都市で一回行われた事柄であるのに対し、ベトナムでは数年間にわたり、広い地域で虐殺が何度も行われ、それを現地の報道機関が繰り返して報道していた。そのことが重要である。
 『週刊新潮』2013年(平成25年)12月12日号は、当時毎日新聞の特派員だったジャーナリストの徳岡孝夫氏の言葉を伝えている。徳岡氏は、サイゴンが陥落した1975年(昭和50年)4月のことを次のように述べている。
  「陥落の日、サイゴンの日本大使館に韓国の外交官が駆け込んできて、“我々はもともと日本国の一部だったんだから匿ってくれ”と言うわけです。結局、断ったのですが、ベトナム人に対して残虐行為を繰り返していた韓国人にすれば、北ベトナム軍に復讐される恐怖は並大抵のものではなかったでしょう」と。

 次回に続く。

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