昨日、ツバメが飛んでいるのをみた。なんだかフラフラしていたが。
★大海を渡りしことも初燕
元気を出して、★水きりの石跳ね飛ぶや初燕
プルーストは地名にこだわっていたのだろうか? ちくま文庫版「失われた時を求めて」第1巻「スワン家のほうへ」は、コンブレー、スワンの恋、土地の名ーー名という3部構成である。だいたい、・・・家のほうへなどと妙な題をつけると気になっていたが、プルーストにとっては地名が記憶を喚起するに違いない。
有名なのは、マドレーヌを口に入れたとたん記憶がよみがえってくる場面であるが、土地の名という部立てを考えると、基本は地名であり、土地の地霊ではなかったろうか。少なくとも、マドレーヌはきっかけであって、記憶の宝庫は地名だったように思う。
昔みたテレビドラマ「桜守」(水上勉原作)は、摂津の三田の近くに住む植木職人一家の物語であったが、中核都市(さんだ)の重い響きが近辺に住む人々の生活と心のよりどころを示しているような気がしたのだった。
いきなり、古代へ飛ぶが(出不精のタイム・トラベラー)、古代人にとって辿りついた土地と相思相愛の関係になりたいと願ったはずである。その地を大事にすることで、地霊に受け入れられ豊かな恵みを与えられる。そして、若い男女が子供たちを産み育てる。死ねば、自分もまた土地の霊となるのであろう。万葉集で、雑歌、相聞、挽歌が基本の部立てであることが、それを示していると思える。雑歌には国褒めや旅の歌枕が多い。
そして、この国褒めを目的とした万葉集における挽歌群が大津皇子など処刑された政治犯を偲ぶ歌になってくれば、これはいかんと感じられて、平安時代に入ると政治犯の死刑をやめることとなったように思える。なにしろ、縁起でもない、国褒めに逆行する歌が、しかも万葉を代表する傑作として並んでいるのだから。
犬の散歩で、犬を出さないのもどうかと思うので、雨恐怖症のりん(女)。どうしても猫中心になって吠えない時は忘れられている。しかし、小学生たちの通学の時には可愛がってもらっている・・・らしい。
もう、藤が咲き始めていた。これは、小さく仕立てて近所の庭にあった。
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