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2011年12月17日10:07

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映像の向こう側(8)  居候の抑制の心

 居候三杯目にはそっと出し。スタジオ・ジブリ「借り暮らしのアリエッティ」2010 を昨夜のテレビでみた。さすがにジブリだけあって、映像が素晴らしい。小人の目と人間の目の双方で見ているからだが、細かいところまで、葉の一枚まできっちり描かれている。こんな美しい世界に囲まれているのか、と改めて気づかせてくれた。ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターの絵が思い出されるが、これこそ日本人の美意識、自然観察だと思う。 
 また、何度も描かれていたが、ポットからお茶を注ぐ場面では、サラサラでなく粘着力を持つ液体とされている。つまり、表面張力でそうなるのだが、原作ではそんな描写はなかったと思う。映像だからだし、それもよく気がついたもので、お手柄であろう。だからって、何度もくりかえすなと茶々を入れたくなったが。
 借り暮らしの理念は、必要最小限しか持って行ってはならないこと、あるものをできるだけ利用して、満足できる生活空間を作ることである。たくさん持っていけば人間に気づかれ、鼠のように駆除されるからなのだが。アリエッティの父親は原作どおりに、信頼される父親像に描かれていた。母親は、夫の持ってくる物をよく工夫して料理を作る。これも、模範的な母親像だろう。
 ただ、ここからメアリ・ノートンの原作から外れるのだが、原作では両親は一人娘のアリエッティを心配して、家の外はもちろん、床下から室内に入ることも固く禁じていた。むろん、室内には人間が、野外には危険な動物がいるからなのだが、アリエッティからみれば抑圧的だったのである。結局、父親がおれて外に出ることを許すのだが、そのような親子関係が充分描かれていなかったのが不満であった。
 もう一つの大きな原作との変更点は、屋敷の少年とアリエッティとの関係を淡い初恋と別れざるを得ない宿命のようにしたことであり、そこを主題としたことである。原作では、少年も含めて人間に見られてはならない、見られたときにどこで暮らすのか。屋敷を出て、野で暮らすとすれば危険だし、借りるものもない、それでは暮らしがなりたたない、どうする。どうすればよい。この難題に解決法があるのか。という、一種のサスペンスにあったと思う。
 最後の場面で、小人の少年が現れて親子の脱出を助けるのだが、原作では続編で登場して、野原で生きる新しいタイプの小人として描かれている。つまり、人工的なものにあまり依存しない自然派、ナチュリストなのである。むしろ、原作のモチーフからいえば小人の少年との関係が重要なのだが、これをやると長くなりすぎてまとまらなくなるからだろう。
 映像ではドールハウスが描かれていたが、多分、ノートンはここから小人たちの暮らしのテーマを見つけたのではなかろうか。北村薫の「覆面作家の夢の家」では、ドールハウスを作ることを趣味とする人物が描かれている。すでにあるものをうまく小人用の家具や道具に転用する、というところがコツだということなのだが、まさに、これが借り暮らしの要諦なのである。
 文明論的に言えば、すでにギリシャ神話で人間の時代を、金の時代、銀の時代、鉄の時代と区分し、自然からの収奪が進むにつれて人心が荒廃、退廃するとしていた。今からいえば黄金の古代ギリシャ文明にしてこの反省があった。ノートンもこの抑制の心を受け継ぎ、物語の主題としたのである。
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