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2020年08月03日10:06

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仏教36〜唯識説と深層心理学

◆唯識説と深層心理学
 唯識説は、空の思想を受け継ぎながら、空の思想が虚無主義ととらえられる傾向を是正しようとした。唯識論は、単なる論理的思考の産物ではない。すべてのものは心が生み出した影像にすぎない、と観じるヨーガ実践者の禅定の体験に基づいていると見られる。
唯識説は、唯心論を体系的に理論化し、あらゆるものは実体や本質を持たない空であり、心の内なる「識」の作用によって仮に現れたものに過ぎないとする。
 唯識説は、無我説に則り、自我に替わって認識の主体に当たるものを、識の作用に求める。仏教の認識論の項目に六識について書いたが、唯識説では、感覚器官に基づく眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を前五識とし、推理・判断する第六識の意識をこれらと区別する。そのうえで、第七識として末那識(まなしき)、第八識として阿頼耶識(あらやしき)を立てる。これらを合わせて八識という。
 末那識と阿頼耶識は、表象としてのあらゆるものを生み出す根本的な識として、想定されたものである。
 末那識の末那は、「思い量る」を意味する言葉であるマナスの音訳である。末那識は、我執の根本となるものであり、いわば自我執着意識である。穢れた心である「染汚意」とも呼ばれ、これによって第六識の意識が生じるとされる。
 阿頼耶識の阿頼耶は、「住所」を意味する言葉アーラヤの音訳である。阿頼耶識は、万物がそれから展開する根源であり、その根源は宇宙の中心や起点にあるのではなく、人間の心の奥底にあるとされる。これが個人の心なのか、集団が共有する心なのか、さらに人間以外の生命体にも広がる心なのかは明確でない。
 末那識は、阿頼耶識を対象とし、それを自我として誤認する。そこに、認識の主体に当たる誤った観念が生まれ、我執が生じるとする。
 唯識派の修行者は、この識の作用の仕組みを知り、ヨーガの実践によって我執を離れることを目指す。修行によって悟りに到達すれば、迷いを生み出す阿頼耶識が、大円鏡智すなわち大きな丸い鏡が一切万有をありのままに映すような、完全なる仏の智慧に転換すると説く。
 19世紀末の西欧において、フロイトは意識の深層に無意識の存在を発見し、ユングは個人的無意識の底に、集合的無意識を仮定した。彼らの心理学の概念でとらえれば、末那識までの七識は表層心理的・意識的だが、阿頼耶識は深層心理的・無意識的である。
 阿頼耶識は、自我意識、感覚と思考、それらによる表象としての万物を生み出す識である。また同時に、それらの表象の記憶を蓄蔵する識でもある。阿頼耶識はこうした産出と蓄蔵の作用を持つとされることから、種子にたとえられ、種子識 (しゅうじしき)ともいう。
 人間が行為をすれば、何らかの痕跡が残る。これを種子(しゅうじ)という。種子は、行為の結果残るものであり、次の生の原因となるものである。植物は枯死しても、消滅するのではなく、種子が残る。そこから、また次世代の生命が発生する。種子が残ることによって、再生を続ける。この種子に、人間の再生する可能性を例えたものだろう。
 種子は、阿頼耶識の中に残って蓄積される。過去の経験は、無意識の記憶となってすべて蓄積される。この点は、フロイトやユングの無意識に関する仮説と同じである。
 唯識説では、過去の経験が無意識の記憶となって蓄積されることを、薫習という。薫習とは、香りが衣服などにつくことであり、過去の経験が阿頼耶識に付着して蓄積されることをいう。よい行為をすれば、よい種子が薫習される。悪い行為をすれば悪い種子が薫習される。よい種子からは、よい行為が生じ、悪い種子からは悪い行為が生じる。ここでいう行為とは、身体的な行為だけでなく、その行為の動機やその結果生じた心の動きを含む。心の動きもまた薫習されて、阿頼耶識の中の無意識の記憶の要素である種子として残る。種子は行為を生む作用を持つ。種子が原因となって、結果としての行為が現れる。それゆえ、阿頼耶識をもとに因縁果の法則を説く縁起論となっている。
 唯識説は、阿頼耶識には一切の現象を生み出す作用因子として、種子を仮定している。種子には、生まれつき存する本有種子と、後天的に加わる新熏種子がある。生まれつきというのは、過去世の記憶であり、後天的とは現世における行為である。そして、これらの2種類の種子が結合して展転し、一切の現象が生じるとする。
 ところで、ユングは、意識の中心点を自我(ego)と呼び、意識・無意識を合わせた心全体の中心を自己(self)と呼んだ。唯識説に立てば、このユング的な自我/自己を生み出しているものが、阿頼耶識であり、自我/自己への執着を捨てることが悟りへの道となるだろう。一方、ヒンドゥー教の側からすれば、ユング的な自我/自己の本体はアートマンであり、そのアートマンとブラフマンの同一性を悟ることが解脱への道となるだろう。
輪廻転生を認めない単生説に立てば、阿頼耶識に蓄積された記憶は、先祖から子孫へと代々受け継がれてきた過去の世代の記憶と考えることができる。これは、ユングの集合的無意識に当たる。
 これに対し、インドの宗教は、多生説に立ち、輪廻転生の世界からの解脱を目的とする。アートマン(我)を否定する唯識説は、阿頼耶識が輪廻転生の主体だとする。阿頼耶識は、アートマンではないが一定の持続性を持ち、死と再生を繰り返すものと想定されている。だが、この仮説は、空の思想や無我説を逸脱するものとして、中観派から批判された。ヒンドゥー教の側からも、当然のこととして反論が出た。宮元啓一は、著書『インド哲学 七つの難問』に次のように書いている。
 「ヴァイシェーシカ学派のヴィヨーマシヴァは、それ(註 末那識、阿頼耶識)を自我であるとして、唯識説を批判している。仏教はそうした識は自己ではないといっても、よそから見れば自己も同然なのである。第一、仏教は経験論に由来する現象主義に立つはずなのに、末那識にしろ、阿頼耶識にしろ、経験的に知られるものではなく、理論体系を確立するために要請されたものなのである。ならば、そのようなややこしいものを想定しなくとも、自己を想定すれば話は簡単にすむのではなかろうか」と。なお、ここで宮元が自己といっているのは、ヴァイシェーシカ学派ではアートマン(我)に他ならない。
 このように、唯識説が仮定する識は、仏教徒がそれをアートマン(我)ではないといっても、ヒンドゥー教徒の側からは、それこそがアートマンだという反論が出るわけである。
 しかし、唯識説がそれまでのインド文明にはない極めて精緻な認識論を打ち立てたことは、ヒンドゥー教の側に強い刺激を与えた。最有力学派であるヴェーダーンタ学派は、ウパニシャッドの哲学の枠組みを保ちつつ、積極的に唯識説を採り入れた。そして、すべての現象は識の顕現であると理解して、梵我一如・神人合一を目指す思想を展開した。こうした唯識説を包含した有神教的な哲学が一旦成立すると、仏教の無神教的な唯識説がそれに対抗して包含し返すことは難しい。むしろ、存在理由が薄れていくことになった。

 次回に続く。

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