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2023年07月01日08:46

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浮世の謎(111) 長江文明とつながる照葉樹林帯

 1枚目 照葉樹林文化とナラ林文化の分布(佐々木高明) 福井県里山研究所
 2枚目 照葉樹  中部復建ブログ
 3枚目 継体天皇像 越前・足羽山 三国港を見ている ウィキ

 古代の大文明は大河の沿岸で発展した。エジプトのナイル川、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス、インダス文明のインダス川、中国文明の黄河と長江である。その理由は、大河に沿って多くの都市国家ができて、互いに競争し、協力したからである。ギリシャの都市国家群からギリシャ文明が生まれたように。
 日本列島の日本海側は、冬の季節風以外は穏やかで、南から流れ込む黒潮の分流・対馬海流が川の代わりとなって、港ごとに都市国家ができたからに違いない。

 日本列島の自然植生は西日本平地が常緑広葉樹林(照葉樹林)で東日本が落葉広葉樹林であるが、それぞれ大陸側と関連している。照葉樹林の場合は、ヒマラヤ山脈南麓から揚子江(長江)南岸を通って西日本に至る連続した自然植生だった。

 「森の駅」ブログによれば、
 縄文時代の人口の8割は、東日本に分布し、それは植生に原因があったと佐々木高明氏は述べています。照葉樹林帯の木の実に比べて資質に富むクルミ・クリ・トチ・ナラの実などの主要食糧は、圧倒的にナラ林帯(落葉広葉樹林)に多かったことや、東日本の河川にはサケやマスが遡ってくることなどが大きな理由として考えられるのです。ブナが極相の代表なのでブナ帯(世界遺産になった青森・秋田県の白神山地が有名)とも呼ばれます。
 一方、西日本では照葉樹林文化が栄え、カシの実をさらしたり、クズやヤマノイモ、彼岸花、サトイモなどの野生のイモ類を掘って水でさらし、でんぷんを濃縮し利用するなどの工夫が見られていました。やがて、稲作がいくつかのルートで日本に入ってくるようになると、特に照葉樹林文化の上に再形成された弥生文化が西日本から東日本に向かって栄えていくようになりました。

 日本海沿岸は交易ルートとして栄えたが、越前から北近江にかけての豪族だった継体(天皇)が、大和を併合し、さらに日本海・朝鮮交易のライバルだった筑紫の国磐井を征服して、今に続く天皇家の先祖となった。
つまり、日本海交易の支配者が日本全体の支配者になったわけである。

 そういえば、戦国日本を統一した織田信長の先祖も継体天皇の三国港に近い越前織田庄出身だった。室町時代には越前・尾張の守護だった斯波氏の家老格の家来だったが、信長の父が尾張斯波家を乗っ取った(下克上)のだった。


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