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2022年06月12日07:56

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日本の心126〜日本精神は偏狭にあらず:安岡正篤

 明治末に現れた「日本精神」という言葉は、大正期から積極的に用いられ、昭和戦前期には広く国民的に使われました。
 大正期から「日本精神」を論じていた人物の一人に、安岡正篤(まさひろ)がいます。安岡は東洋思想に造詣が深く、戦前から国家指導層に指導者の在り方を教え、戦後は「歴代総理の指南役」と呼ばれました。
 明治31年(1898)生まれの安岡は、青春時代に、明治以来の日本主義に触れました。東京帝国大学1年の時に、三宅雪嶺、志賀重昂らが創刊した雑誌『日本および日本人』に寄稿し、まれに見る俊才として注目を浴びました。
 安岡は、大正10年に皇居内に設立された社会教育研究所に入り、大川周明らとともに、教師や政治家・軍人・官僚などに教育を行いました。昭和の元老・牧野伸顕は、はるか年下の安岡を「老師」と呼んで、その学識の深さに敬意を示したほどです。
 大川や安岡は、社会教育において、「日本精神」という言葉を積極的に用いました。安岡は社会教育研究所で書いた論文を集め、大正13年に『日本精神の研究』を刊行しました。当時の日本精神論としては、大川の『日本精神研究』(昭和2年刊)と双璧をなす名著です。本書で安岡は、自覚・人格・悟道、学問と政治行動、武士道などを論じ、熊沢蕃山、大塩中斎、宮本武蔵、副島種臣、高橋泥舟らの人物論を披露しています。文武両道の安岡は剣道を得意としており、武士を論じた文章には、その修行で得たものが反映されています。
 昭和に入ると、わが国ではテロやクーデター事件が続発しました。大川周明は、そうした事件にかかわり、5・15事件に連座しました。しかし、安岡の考えは違いました。5・15事件の直後、安岡は『青年同志に告ぐ』と題する一文を著しました。その中で彼は言います。
 「革命と称し、維新と称し、救国済民に名を仮て乱を好み、乱を煽り、乱に乗じて、その私欲を恣(ほしいまま)にせんとする志士、運動家が如何に多いことでありましょう。(略)一身の病すら凡医の容易に治療するところではありません。天下の病を救うには、それこそ余程の仁愛と細心の智慮と、定策決機の勇断とを内に養い、外はかかる真乎の同志を要するのであります。(略)私の素志はむしろ、張横渠の所謂『天下の為に心を立て生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く』の徒たらんとするに存するのであります」と。
 こうして安岡は、テロやクーデターをめざす運動家たちと、たもとを分かちます。そして、幅広い教育、啓蒙活動によって「人間教化」を推進するという、独自の路線に進みました。
 昭和6年に満州事変が勃発し、7年に満州国が建設されると、国際社会でわが国への風当たりが強くなりました。これに対し、わが国は翌8年、国際連盟を脱退するという、危険な国際的孤立化の道を進みました。それとともに、国内では「日本精神」を標榜する書物が多く現れるようになりました。これはわが国の伝統や文化を再評価する動きではあったのですが、国内事情・国際情勢を反映して、排外主義的な主張が目立ってきました。
 昭和11年、2・26事件が勃発しました。これを機に、軍部や右翼の独善的・偏狭的な傾向が一層、強まりました。この年、安岡は『日本精神通義』を刊行します。
 安岡は、本書で本来の日本精神は狭量なものではないことを説き、日本精神は異民族・異文化を受け入れながら発達してきたことを明らかにしています。
 「日本の国土からして非常に紫外線の強い、地熱の高い、ラジューム放射能などの強いところである。それだから杉、檜などが発生し、よい酒ができ、また良い刀ができるのです。植物の数、禽獣草木の数、実に豊富である。これくらい豊富なところは世界にない。そのうえ、国民精神も儒きたらば儒、仏きたらば仏、キリストきたらばキリスト教、その他何でも、一切自由に謙虚にこれを受けて、そして、これを実に健やかに咀嚼し消化し吸収し、しかして排泄するのである。これこそ偉大なる日本精神です。
 その最も高貴な顕現を皇道に見るのであります。ところが古来、日本に困ったことは、国学者は漢学者を排斥し、キリスト教はまた神道を排斥し、というふうに始終排斥し合っている。特に異民族の文化に反感を持つ、いわゆる日本主義者、日本精神論者が(今日なお未だありがちだが)何ぞといえば相排斥することをもって能事としている。非常によろしくないことであります。それでは日本精神は発達しない」
 そして、次のように警告しました。「今日憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。これは決して日本精神、皇道を世界に光被するゆえんでない。そもそも言挙げをするということが、イデオロギー闘争をやるということが、日本国民性に対してあまり合わない。それよりも不言実行の士、謙虚、求道の風を帯びるということが日本人の欲するところであり、しかして、これ実に人類の欲するところです」と。
 しかし、こうした本来の日本精神の良さが見失われ、独善的で偏狭な考え方が、わが国を覆うようになりました。多くの政治家や軍人は、ナチスやファッショの影響を受け、無謀な戦争に突き進んでいきました。彼らは、日本精神を失って、独伊のファシズムを模倣したのです。昭和10年代から戦争中に唱えられた日本精神論は、本来の日本精神とはかけ離れたものです。
 大東亜戦争の開戦によって、安岡の憂いは深まりました。そして昭和18年1月には、読売新聞に『山鹿流政治』を掲載しました。これは為政者の心構えを説き、東条英機を暗に批判するものでした。軍部が専横を極めた時代に、排外的・独善的な風潮に物申すことは、勇気のいることでした。しかし、言論統制が厳しくなり、安岡には、もうそれ以上のことはできませんでした。地道に人材育成を続けるばかりです。
 大東亜戦争は敗北に終わりました。この時、安岡は重要なことに関わります。昭和天皇の「終戦の詔勅」を作成するにあたり、内閣書記局長・迫水久常が、安岡に原稿の校正を依頼したからです。詔勅にある「万世ノ為ニ太平ヲ開カントス」という文言は、安岡の朱筆によるものといわれます。
 戦後、首相となった吉田茂は、かつて安岡を「老師」と呼んだ牧野伸顕の女婿でした。その関係で吉田もまた、安岡を師と仰ぎました。「吉田学校の優等生」といわれた池田勇人、佐藤栄作を始め、岸信介、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理も、安岡の薫陶を受けました。彼らのような保守本流ではなかった中曽根康弘は、自ら安岡に教えを乞いました。作家の三島由紀夫もまた安岡に啓発されています。その他、安岡の指導を受けた経営者や官僚は多く、その名声は今日も衰えません。
 「平成」の元号は、安岡の提案によると伝えられます。
 安岡正篤は、深い学識と活眼をもった学者・教育家でした。明治の日本主義を継承して日本精神を研究し、政・官・財の指導層に影響を与えた一代の碩学(せきがく)が、戦前から日本精神とは偏狭なものではないと説いていたことは、傾聴に値するでしょう。
しかし、安岡の日本精神論は、なお限界があります。日本精神の真髄を極め、自ら体得した境地とは、隔たりがあるからです。
 本当の日本精神を学びたいと願う人々には、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一先生の教えに触れることを、強くお勧めします。大塚総裁の教えを知ることによって、初めてこれまでのあらゆる日本精神論を超えた、真の日本精神・神の道を学ぶことができるからです。

参考資料
・塩田潮著『安岡正篤』(文春文庫)
・安岡正篤著『日本精神の研究』(絶版)
・安岡正篤著『日本精神通義』(MOKU出版)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

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