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2021年12月19日08:54

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日本の心39〜応仁の乱と下克上でも崩れなかった国柄

 足利時代は、一言で言えば下剋上の時代です。下剋上とは「下(しも)上(かみ)に剋(か)つ」という言葉です。
 足利尊氏は、建武の新政を行っている後醍醐天皇に反乱を起こし、別の天皇を立てました。これにより皇位が相対化されました。さらに足利義満は、自ら太上天皇になろうとしたため、天皇の権威を引き下げました。その結果、実力さえあれば下位の者が上位の者に剋ってよいという考えが、広がっていきます。
 足利幕府では、政治力のない将軍が続いたため、8代将軍義政の時代には、幕府の運営は何人かの実力派大名の手に移りつつありました。その実力者の中で、紀州の畠山家と越前の斯波家に、相続争いが起きました。双方が大大名の細川と山名に支持を求めたため、対立がより根深くなりました。さらにここで、本来彼らの調整役に回るべきであった足利将軍家に後継者問題が起きます。善政の弟・義視と、日野富子の子・義尚のどちらが将軍に就くかという争いです。こうして、足利家自体が分裂状態に陥ります。
 こうして守護大名では細川勝元と山名宗全が、畠山家では畠山政長と畠山義就(よしなり)が、斯波家では斯波義敏と斯波義廉(よしかど)が、将軍家では足利義視と義尚が、東軍・西軍に分かれ、大戦争を引き起こすことになります。
 これが、応仁の乱です。応仁元年(1467)5月26日、戦いの火ぶたが切られると、敵味方が入り乱れ、京都中が戦火に巻き込まれました。大乱は以後、11年もの間続き、日本全国が動乱の淵に投げ込まれました。その結果、わが国には歴史の大断層が生じました。この大乱をきっかけにして、皇室や一部の公家などを除けば、古代からの多数の家が没落し、新たな家系が多く勃興したのです。
 応仁の乱を機会に、下剋上の勢いが強まります。将軍義政は戦乱が起きても反省することなく、風流に遊び、銀閣を建立し、現実逃避をしているような状態でした。しかも、シナ(明)に対して窮乏を訴え、寄贈を依頼するなどの恥ずべき態度を取りました。将軍がこんな風ですから、権力はその下に移るのが当然です。応仁の乱の後、細川勝元の子・政元の時から、細川家は管領の地位を独占し、将軍は自分が選び出し、並ぶものなき権勢を得ました。しかし、政元の後継者争いから内紛を生じます。実権は執事の三好家に移る羽目になり、さらに権力がその家臣の松永久秀らに移りました。そして、松永久秀は将軍義輝を殺害してしまいます。
 下剋上とは、見方を変えると、天皇から将軍へ、将軍から管領・家老・家老の家来と、実権がどんどん下降していくこととも言えます。こうした過程は、すべて相続争いと同族争いによって起こりました。
 さらに新たな傾向が現れました。応仁の乱の時、西軍に属していた朝倉孝景の戦績には、実に目覚しいものがありました。朝倉氏は斯波氏に仕えていましたが、東軍の総帥細川勝元は斯波氏との戦いを有利に進めるため、越前一国の守護を条件に、孝景東軍への寝返りを勧めてきました。孝景は、忽ちこれに飛びつき、主家の斯波氏から守護職を奪い取りました。これが下克上の始まりとも言われます。その後、各地に新たな実力者が登場し、群雄割拠の戦国時代が始まります。
 わが国では、国の中心が揺らぐとき、国が分裂・混迷に陥ります。12世紀の保元・平治の乱以後、戦国時代へと至る歴史を見ると、天皇が君徳を失い、皇統が乱れ、人臣が忠義を失ったとき、力と力、欲と欲がぶつかり合う乱世となりました。そして、一旦、皇室の権威が雲に覆われると、実権は下方へ、下方へと下がっていき、とめどない分裂・対立の状態となっていきます。
 将軍家はあるものの、権威と実力を失った戦国時代。混迷の続く日本を再統一するには、新たな英雄の登場を待たねばなりません。その英雄こそ織田信長です。
 織田信長は、天下統一の要として、天皇を中心に立てることに思い至るのです。

 次回に続く。

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