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2020年09月19日08:31

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仏教56〜宗教的に見た秦から漢の歴史


●秦から漢の歴史

◆秦代
 戦国時代後期に、戦国七雄の一つ、秦が台頭した。秦王政は、紀元前256年に周を滅ぼし、前221年までに他の六国も滅ぼして、史上初めてシナを統一した。諸王を超える称号として皇帝を使い、自ら始皇帝と名乗った。
 始皇帝は、儒家ではなく法家の思想を採用した。儒家は仁の徳による政治を目指す徳治主義だが、法家は厳格な法律で人民を統治する法治主義を説く。前者では性善説が主流だが、後者は荀子の性悪説を継承した。法家の李斯は、丞相として始皇帝を助け、中央集権化を推し進めた。
 始皇帝は、法家の進言により、焚書坑儒による思想統制を行った。焚書は、秦朝の諸政策を非難する動きを抑えることが主な目的であり、実際は諸子百家の主要な書物は保存されていた。坑儒によって、始皇帝の誹謗に関わった儒者は処罰されたが、儒家の抹殺を図るほど徹底したものではなかった。儒家の復興の余地は残されていた。
 秦は、行政・軍事・監察を行う役人を中央から地方に派遣して支配する郡県制を施行した。全国を中央集権的に支配するため、度量衡・貨幣・文章書体等を統一した。対外的には、遊牧民族でモンゴル系ともトルコ系ともいわれる匈奴の侵入を防ぐために、万里の長城を建設した。
 始皇帝が紀元前210年に死ぬと、強権的で急激な変革と厳しい法による支配への反発から、陳勝・呉広等の農民反乱が起こった。それに触発されて貴族等の反乱が続き、紀元前206年に秦は滅亡した。
 秦は、わずか10数年しか続かなかったが、シナ大陸初の統一国家を実現した。そのことによって、秦の名はシナという名称の由来となっている。シナは、漢語では支那と記し、英語ではチャイナ、フランス語ではシナと呼ばれる。私は、シナと表記する。支那とチャイナは同じ意味であることを表すためである。文明の名称とともに、地域の名称としてもシナを使う。

◆漢代
 秦を滅ぼしたのは、農民の出身で下級の警吏だった劉邦である。劉邦は項羽と覇権を争い、垓下の戦いでこれを破り、紀元前202年に漢の皇帝となった。高祖と呼ばれる。
高祖は、都を長安に定めた。ほとんどの官制・法制は、秦にならった。ただし、秦は急速な中央集権化で失敗したと見て、周で行われた封建制と、秦で行われた郡県制と併用する郡国制を取った。
 漢代初期には、秦の統制政治への嫌気から道家の黄老思想が流行した。だが、秦を継承する政治制度と黄老思想は本来、両立するわけがなく、5代文帝の頃より、法家の法治主義が尊重された。
 漢代には、秦の始皇帝の焚書坑儒に耐えた儒家が勢いを取り戻した。儒学者の董仲舒は、皇帝を政治・道徳・宗教の中心とするため、儒教によって思想を統一すべきだと主張した。7代武帝は董仲舒の建策を容れ、儒教を国教とした。以後、儒教はシナ文明の皇帝支配・国家体制の指導思想となった。
 武帝は、中央集権体制を確立した。対外的には、匈奴を討って西域に進出した。それによって、西方との交通路いわゆる絹の道(シルク・ロード)が開かれた。以後、ローマ帝国との間で使節の交換が行われた。武帝はまた朝鮮・ベトナムに遠征して領土を拡大した。
 その度重なる軍事行動は、人民を疲弊させた。外戚の王莽が反乱を起こし、紀元後8年に皇帝の位を奪って、新を建国した。だが、間もなくその政治への不満から農民反乱が起き、新はわずかの間に滅亡した。
 その後、紀元後25年に、劉氏の血を引く劉秀が、漢を復興した。都を洛陽に定め、光武帝となった。この漢を後漢、以前の漢を前漢と区別する。
 後漢も儒教を統治の基本思想とした。儒教は当時の知識人に不可欠の教養となり、儒教の聖典である経書の権威は高まった。五経は、孔子の説く「先王の道」を直接記したものであるとされた。また、経書を研究・注釈する学問である経学が盛んになった。以後、儒教は、古典の読解を中心とする訓詁学として発達した。学問において権威の確立は、同時に形式化を招く。古典の順守に傾いた儒教は、新たな機軸を生み出す活力を失っていった。
 後漢は、幼帝が続き、これを操る外戚や宦官の政争で政治が乱れ、飢饉が頻発し、社会不安が増大した。164年に道教の指導者・張角が黄巾の乱を起こした。これをきっかけに群雄割拠の世となり、後漢は220年に魏によって滅ぼされた。
 漢は、前漢・後漢を合わせて約400年の間、シナ大陸に君臨した。その名は、シナの別称として、漢民族・漢字などに使われる。だが、シナの文化は、古代から何度も民族の異なる集団間で王朝が交代し、漢民族の文化と周辺諸民族の文化が融合を繰り返しながら発展したものである。シナ社会は、仮に漢王朝を建てた王室を純粋な漢民族と考えたとしても、その王室は3世紀初めに滅亡してしまった。以後、漢民族を自称する集団は、幾度も侵入・征服を行った遊牧諸民族と混交を繰り返してきた。漢民族と混血してきた非漢民族には、トルコ系、ツングース系、チュルク系、チベット系、モンゴル系等がある。

 次回に続く。

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