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2019年10月25日12:41

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インド13〜カルマンの法則と解脱

◆カルマンとその法則
 輪廻の原因は、行為(karman、カルマン)であるとされる。仏教では、これを業と訳す。何か行為をすると、それが原因となって何かの結果を生む。行為は、それが身体活動であれ、言語活動、精神活動であれ、必ず何らかの事象の原因となる。善いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば禍が起こる。このような因果説が輪廻の思想と結びついているところに、ヒンドゥー教の教義の特徴がある。
 ヒンドゥー教では、この因果説と輪廻の思想が結合したことにより、個人個人の現在の境遇、すなわち所属する社会階層や家柄、幸・不幸等のすべては、自分が過去世で行った行為の結果であると考える。また、現世における行為の影響力は、現世に留まらない。肉体は滅しても、霊魂は死後も存続する。自己は目に見えない微細な存在となって、自ら蓄積した行為の結果として、別の生命体に生まれ変わる。原因と結果の連鎖は、来世から次の世、さらに次の世へと限りなく続いていく。そのようにして、死と再生が幾度も繰り返されると考える。この過程で、自らの行為によって蓄積したものが総体的に善であるか、悪であるか、その度合いによって、来世で取る姿は、神々であるか、人間であるか、動物であるか、地獄の住民であるかが決まる。これをカルマンの法則という。
 カルマンの法則は、人間だけでなく生きとし生けるものを貫く普遍的なものとされる。天界に住む神々も輪廻の世界にあり、カルマンの法則に支配されており、その地位を失って、地上に降下することがある。行為の結果は、すぐ現れる場合もあれば、長い期間、たとえば何度も輪廻転生を繰り返した後に現れることもあるとする。
 こうした輪廻とカルマンの思想は、『ウパニシャッド』において初めて明確な形を取るようになった。以後、ヴェーダの宗教の中心的な教義となり、ジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教にも影響を与えている。
 カルマンの法則は、バラモンによって高度に理論化され、ヒンドゥー教の人間観・死生観・来世観を形成してきた。バラモンは、現世における身分(ヴァルナ)は、過去世の行為の結果であり、下の階層の者は現世で善行を積み、来世で生まれ変わる以外には、上の階層に上がることはできないと説いた。こうした教義は、ヒンドゥー教徒の意識を深く束縛している。
 カルマンの法則が教義として確立・普及すると、ヒンドゥー教徒の多くは、できるだけ行為をしない生き方を志向するようになった。行為をすることは、輪廻をもたらすからである。何か行為をすることは、それが良い行為であれ悪い行為であれ、霊魂を輪廻の世界に縛り付けることになるとして、行為そのものを否定するという考えに至ったわけである。
 ヒンドゥー教は有神教であるので、カルマンの法則は神の意志によって働くものとみなす。神は、いかなる行為も見逃さず、あらゆる行為について、それに応じた結果を与えると考えるのである。これに対し、仏教は無神教の立場から、ある行為について、それに応じた結果が生じるのは、因縁果の法則によるものであって、神が関与しているのではないと教える。

◆自己
 輪廻とカルマンの法則に関する記述で、霊魂と自己について書いた。これらをともに表す言葉は、アートマンである。アートマンが意味する自己は、単なる自我ではなく、輪廻転生を繰り返す個人の本体を意味する。それが本来の自己とされる。
 『ウパニシャッド』において、本来の自己を知ることは、肉体の奥深くに宿る常住不変のアートマンを悟ることを意味する。アートマンを悟ることは、宇宙の根本原理であるブラフマンを悟ることに他ならず、ブラフマンと一体化することである。言い換えれば、自己と宇宙が一体化することであり、アートマンという個我がブラフマンという宇宙我と一体となること、小宇宙である自己が大宇宙である宇宙全体と一体化することである。
 キリスト教の主流では、神は宇宙の外から宇宙を創造し、人間を創造したと説く。それゆえ、神と人間が合一することはあり得ない。神と人間は別の存在であり、被造物である人間が、創造主である神と合一することはできない。人間の究極の目標は、最後の審判で永遠の生命を得ることである。ところが、ヒンドゥー教では、汎神教的な宇宙創造説が中心となっている。『リグ・ヴェーダ』における唯一物が展開して宇宙が出来たという神話が発展して、ブラフマンによる宇宙創造説が広く信じられている。この場合、創造主と被造物は根本的に同一であり、被造物は根本原理が形態を取ったものである。それゆえ、アートマンとブラフマンは合一が可能なのである。

◆解脱
 ヒンドゥー教の人生の目標は、解脱(モークシャ、ムクティ)である。解脱は、現在に至るまで、ジャイナ教、仏教など、インドの他の諸宗教の多くの目標となっている。
 ヒンドゥー教では、この世において生きることは苦しみであるととらえる。仏教は一切皆苦と説くが、その教えはヴェーダの時代から続くこの考えを継承したものである。この苦しみの世界で生と死を繰り返す輪廻の生存から離脱することが、ヒンドゥー教をはじめインドで生まれた諸宗教の多くの目標となった。
 ヒンドゥー教において、解脱は、神との合一あるいは神への帰属である。その状態に到達すれば、再生することはないと考える。
 『バガヴァッド・ギーター』に、次の一節がある。私とは、ブラフマンと同一の最高神と見なされているヴィシュヌである。「私に到達して、最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。梵天(ブラフマー)の世界に至るまで、諸世界は回帰する。・・・しかし、私に到達すれば、再生は存在しない」(第8章15〜16、上村勝彦訳)と。
 ヒンドゥー教では、ブラフマンとアートマンの本質的な一致を説くことにより、解脱した後は、個人という意識は消滅すると考える。個の意識が消滅し、全体に融合・没入する。これが神人合一、神への帰属を達成した状態と考えるものだろう。

 次回に続く。

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