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2019年04月18日12:12

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キリスト教188〜幕末から明治初期のキリスト教

●幕末から明治初期のキリスト教

 鎖国下で日本文明は熟成期を過ごし、独自の文化を開花させた。宗教的には、神道と仏教・儒教の融合・発展が見られる。後二者の日本化が進んだ。
 1853年、アメリカのペリー提督率いる黒船が来航し、圧倒的な軍事力を誇示して、わが国に開港を迫った。この時から、激動が始まった。幕府は鎖国政策から転換し、西洋諸国に門戸を開いた。1858年に日米修好通商条約等の諸条約が列強との間で結ばれた。その後、外交使節や貿易商とともに多数のキリスト教宣教師たちが来日した。
 最初に来たのは、カトリックである。1858年に日仏修好通商条約が結ばれると、3人の司祭が日本に入国した。ローマ教皇庁がパリ外国宣教会に宣教師派遣を依頼したものである。彼ら宣教師のうち、P・S・ジラールは、横浜に拠点を構え現在の山手教会を建てた。
L・T・フューレが長崎に現在の大浦天主堂を建てると、その1か月後、婦人たちが教会を訪れ、自分たちは隠れキリシタンであることを告白した。これを長崎の信徒発見という。
 1859年、プロテスタントが初めて来日し、アメリカの長老派、オランダ改革派教会、バプテスト、メソディスト等の宣教師が活動を開始した。また、ロシア正教会は1861年に、司祭が箱館(函館)駐在のロシア領事館付司祭として来朝し、布教を行った。
 幕末の動乱を経て、1867年(慶応3年)、徳川慶喜は、約700年続いた武家政権から朝廷に大政奉還を行った。明治天皇は王政復古を宣言し、ここに明治維新が始まった。日本文明は発展期に入った。翌68年(慶応4年、明治元年)、新政府の政治方針として、五箇条の御誓文が公布された。御誓文は、新たな日本国及び日本文明を創造する根本方針を示したものである。この方針の下で、明治政府は、古代からの皇室中心の国柄を明確にしつつ、近代的な中央集権国家を建設するというユニークな国づくりを推進した。
 同じ年、明治政府は、五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続する方針を明らかにした。キリスト教禁止と信徒への弾圧は、列強の激しい抗議と反発を招いた。不平等条約改正を目指す岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であると告げられた。そこで政府は、1873年にキリスト教禁止令を解除した。
 明治政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化をスローガンとして、日本の近代化を図った。近代化は、同時に西洋化の過程でもある。進歩発展した欧米に追いつくために、総力をあげて、西洋の思想・文化・知識を採り入れた。西洋化政策が進められると、西洋文明の宗教的中核であるキリスト教への関心が高まった。上流階級にキリスト教に入信する者が多く出た。
 カトリック・パリ外国宣教会の宣教師は、教育事業と社会福祉事業に力を注ぎ、各地に修道院、孤児院、学校、療養所等を設立した。しかし、この時期に、それ以上に熱心活動したのは、プロテスタントである。
 幕末から明治初期に来たプロテスタントの宣教師の情熱の背景には、アメリカの大覚醒と呼ばれる数次にわたる信仰復興運動があった。アメリカの宣教師によって、日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の立場である。
 近代以降の日本のプロテスタントには、三つの流れがある。横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドである。バンドとは「団体」の意味である。
 横浜バンドは、ヘボンと呼ばれた長老派の医師J・C・ヘップバーンによる。彼が1863年に開いた横浜英学所はバラ学校とも呼ばれ、押川方義らが洗礼を受けた。本多庸一、植村正久らもこの系統である。
 熊本バンドは、1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズによる。彼は会衆派(組合派)の熱心な信徒だった。その教え子たちが入信した。このグループは、新島襄が1875年に開いた同志社英学校に加わった。その中に小崎弘道、海老名弾正、金森通倫らがいた。
 札幌バンドは、1876年札幌農学校で教壇に立ったW・S・クラークとメソディスト派宣教師メリマン・ハリスによる。彼らの指導を受けた教え子が入信した。内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吉らがいた。
 日本のプロテスタントはこれら三つのグループを中心として発展した。横浜バンドら日本基督教会が、熊本バンドから日本組合基督教会が生まれた。札幌バンドはメソディジスト派との関係を絶ち、新渡戸はクェーカー派の信徒になり、内村は無教会主義を創始した。
 ここで注目すべき人物が新島襄である。新島は、武家に生まれた。米国でキリスト教を学びたいと思い立って、1864年に米国への渡航を図った。箱館に潜伏中、ロシア領事館付司祭のニコライ・カサートキンと会った。ニコライは日本に初めてロシア正教を伝えた宣教師である。ニコライは新島から日本語を学ぶ一方、新島に自分の弟子になることを勧めた。しかし、新島の意思は変わらず、ニコライは新島の密航に協力した。
 渡米した新島は、神学校を卒業し、名門校アマースト大学を卒業した。日本人で初めて外国の学士(理学士)の学位取得だった。新島はこの大学で、W・S・クラークから化学の授業を受けた。クラークにとっては最初の日本人学生だった。この出会いがきっかけで、クラークは来日することとなった。正式な留学生と認められた新島は、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、木戸孝允付の通訳として欧州視察に加わった。その際、各国の教育制度・教育機関をよく観察した。帰国後は、同志社英学校や同志社女学校を開いた。
 新島もそうだが、日本の初期のプロテスタント指導者には、武士や武士の子弟が多い。元佐幕派の士族階層が中心だった。

 次回に続く。
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