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2019年01月29日13:02

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キリスト教153〜カトリックへの弾圧:ビスマルクの文化闘争

●カトリックへの弾圧〜ビスマルクの文化闘争

 ドイツもまたイタリアと同じく近代化の後進地域にあって、統一を目指した。ローマ教皇ピウス9世は、イタリア統一の際にはヴァチカンに幽閉され、イタリア王国と断交状態になったが、ドイツに関してはビスマルクの文化闘争に対抗してドイツ帝国内の勢力を保った。
 ドイツ統一を主導したのは、プロイセン王国だった。1862年に同国の首相となったオットー・フォン・ビスマルクは、オーストリアを除く統一を目指して鉄血政策を進めた。鉄血政策とは、鉄つまり鉄製の武器と、血つまり兵士の血による軍備増強をもって、ドイツ統一を進めるものてある。
1870年プロイセンの強大化を恐れたフランスのナポレオン3世が、普仏戦争を起こした。しかし、プロイセン王国を盟主とするドイツ諸邦はフランスを打ち破り、これをきっかけに連邦国家、ドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、工業化による経済成長を図って近代化改革を行った。その一環としてカトリックを弾圧する文化闘争を行った。その詳細は、後に述べる。
 ビスマルクは、社会主義者に対しては、社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた。その一方、労働者が社会主義政党に流れるのを防ぐため、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出した。
 しかし、88年に若いヴィルヘルム2世がドイツ皇帝兼プロイセン国王に即位すると、ビスマルクは外交・内政で皇帝と意見が衝突し、90年に首相を解任された。その後、98年に死去した。
ビスマルクが行った政策のうち、カトリック教会に対する文化闘争について概要を記す。
 カトリック教徒は、ドイツの南部・西南部、東方のポーランドに多く、反プロイセン的な分邦主義ないし分離主義と結びつきやすかった。またカトリックの多いオーストリアやフランスと結びつく恐れもあった。
 ビスマルクは、1871年から78年にかけて、カトリック教会の政治的・社会的影響力をそぐための政策を行った。このカトリック弾圧政策を文化闘争という。
 1870年に教皇ピウス9世は、第1ヴァチカン公会議を通じて教皇不可謬性を教義として発布した。その直後にイタリア王国軍によってヴァチカンに幽閉されたが、教皇は巻き返しを図った。
1871年に新教国プロイセンが主導するドイツ帝国が樹立されると、カトリック勢力はこれに不満を持ち、1871年にドイツ中央党を設立して、帝国議会で第2党となり、中央政府と対立した。
 これに対し、ビスマルクは71年に、聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課す説教壇条項を刑法に付加した。72年にイエズス会を国外追放処分にした。また同年ヴァチカンと断交した。73〜74年には五月法と呼ばれる一連の政教分離法令を公布して、聖職者への管理を強めた。しかし、ピウス9世の支援を受けた中央党の抵抗に遭い、ビスマルクの弾圧政策は効果が上がらなかった。74年の帝国議会選挙では、逆に中央党の議席が倍増する有様だった。ビスマルクは社会主義勢力の台頭や自由主義左派の反発に対抗するため、中央党との関係改善へと方針を転換した。
 78年に教皇ピウス9世が死去し、ドイツと対話する意思のあるレオ13世が即位すると、教皇とビスマルクの和解が成った。それによって、文化闘争は終了し、1887年までには大半のカトリック弾圧法令が廃止された。
 ビスマルクの文化闘争は、失敗に終わった。逆に言えば、カトリック勢力はビスマルクの弾圧政策に耐え、逆に勢力を伸ばした。
 ドイツ帝国は、神聖ローマ帝国に対して第2帝国と称した。第2帝国で勢力を保ったカトリック勢力は、その後に登場したナチスに協力し、ナチス・ドイツによる第3帝国の発展を支えることになった。

 次回に続く。
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