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2019年01月24日09:46

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キリスト教151〜近代におけるカトリック教会の守旧と宣教

●近代におけるカトリック教会の守旧と宣教

 カトリック教会は、16世紀にルター、カルヴァンらの批判を受け、対抗宗教改革を実施して、組織の引き締めを図った。ヨーロッパにおける近代化の進行の中で、カトリック教会は近代化に対抗する守旧勢力だった。近代西欧科学の成果に対して否定的な態度を取り、中世的な価値観を保持し続けた。また、政治的な勢力としては、依然として巨大な存在であり続けた。
 これに対し、イギリスでは、1534年にイングランド国教会がカトリック教会から分離し、その後、いくどかカトリックへの弾圧が行われた。アメリカ合衆国は、プロテスタント移民が建国した国ゆえ、カトリックは少数派だった。フランスでは、絶対王政下でカトリックが国教となっていたが、フランス市民革命で強い反発を受け、教会財産を没収されるなどした。しかし、教皇はナポレオンとコンコルダートを結び、フランス政府との関係を修復した。ドイツでは、ルター派の改革以後、カトリックはプロテスタントに圧され、西南部を中心とする少数派となったものの政治的な影響力を保持した。
 その一方、ローマ教皇庁のあるイタリア半島をはじめ、スぺイン、ポルトガル、フランス、ネーデルラントの南部、ドイツの西南部、オーストリア、ポーランド等で教勢を維持した。また、19世紀後半から、英米等でカトリック教徒に対する政治的差別条項が順次廃止されたことにより、英語圏諸国での布教活動が活発化した。そのうえ、アイルランド大飢饉が原因でカトリック教徒のアイルランド人が北米をはじめとする世界各地に大量に移民したことにより、カトリック教会の教勢は拡大に転じた。
 欧米の外に向かっては、カトリック教会は、地理上の発見以後、かつてない世界的な宣教活動を行った。中世を通じてカトリック教会は腐敗・堕落の度を強め、宗教改革者から非難を浴びた。だがそれで衰退したのではなく、15〜16世紀にスペイン、ボルトガルが世界を二分した時は、それに乗じて世界各地に宣教した。南北アメリカ大陸やアジア、等に宣教し、植民地の人民を教化することで、征服支配者による収奪を容易にした。そしてカトリック教会は、腐敗堕落した体質のまま、より大きな富を獲得したのである。なかでもイエズス会は、アジア、アフリカ、アメリカ等に多くの宣教師を送ったことで知られる。こうした活発な海外布教活動によって、カトリック教会は信徒数、経済力等において、世界最大の宗教団体となっている。

●教皇の不可謬性を教義に

 さて、話をヨーロッパの地域内に戻すと、19世紀後半、近代化の後進地域だったイタリアとドイツで、近代化政策が進められたことによって、カトリック教会は中世以来の権益を大きく損なわれた。これに対応するため、カトリック教会は、守旧的な姿勢を強固にした。教皇ピウス9世は、1864年に啓蒙主義や自由主義、共産主義を排斥するため、教皇から全世界のカトリック教会の司教へ宛てた文書である回勅とともに「誤謬表(シラバス・エロラム)」を公布した。また、教皇庁は、進化論を否定するなど近代科学の理論や思想に敵対的な態度を取った。教義に反する書物を読むことを信者に禁じ、禁書目録をたびたび発行した。
 さらにピウス9世は、対抗宗教改革の開始となったトリエント公会議以来、約300年ぶりとなる公会議を召集して、教皇権の強化を図った。1869年12月から70年10月にかけて行われた第1回ヴァチカン公会議である。
 この公会議において、 2つの憲章が採決された。重要なのは、1870年7月18日に採択された「パストル・エテルヌス」と題された憲章である。この憲章は、教皇首位説および教皇不可謬説に関する教義憲章だった。教皇の不可謬性に関する教義は、古代よりこの時まで発表されたことがなかった。その意味では、教皇権は絶頂を極めたともいえる。
 教義憲章は、万物の創造主なる神の教義から始まる。人間は生まれながらに持つ理性の光により、神を認めることができる。神の啓示は、神についての生まれつきの知識を覆うものであるという。これは、トマス・アクィナスの思想が教義とされたものである。
 次に、教皇と教皇の卓越性についての教義が、次のように示されている。第1章では、ペトロは、主から全教会における司法権を授けられたとする。第2章では、ローマ教皇はペトロの後継者であるとする。第3章では、次のように定める。1439年フィレンツェ公会議の宣言によれば、キリストの代理者である教皇は、教会の至高者である。全教会において最高の司法権を有しており、単に信仰と道徳に関する問題だけでなく、教会管理についても絶対の権威者である、と。第4章では、次のように定める。もしローマ教皇がエクス・カテドラ(聖座宣言)を発するならば、すなわち、全キリスト信者の牧者であり、教師である職務を遂行し、使徒的権威に基づいて信仰と信仰生活に関する教えを全教会が受け入れるべきであるとの教書を発布するならば、その時、ペトロに約束された神の加護により、教皇は、信仰と信仰生活の教義の絶対的決定について贖い主なる神が教会に備えた無謬性を発揮する。それゆえ、ローマ教皇聖座の決定は、それ自体、不変性を持ち、教会の承認によるのではない、と。
 こうした教義は、カトリック教会の根本教義に基づき、論理的・整合的に構成されている。しかし、それゆえに、歴史的現実とは全くかけ離れた主張となっている。実際のカトリック教会の歴史においては、教会はしばしば過ちを犯し、教皇も罪を犯してきた。宗教改革者たちは、終始一貫して教会の無謬性の思想に反対して戦った。ルターは、1519年のライプッチ論争で、教皇庁側と論戦した際、公会議の権威を否定し、また教皇権は聖書にもとづくものでないとしてその権威を否定した。このように宗教改革者の厳しい批判を受けたカトリック教会が、あえて1870年7月18日に、教皇の不可謬性に関する教義を発布したのである。
 ところが、教義憲章が発布された約2か月後、イタリア王国軍がローマを占領し、ピウス9世はヴァチカンに幽閉される事態となった。教皇の不可謬性を教義として発布した教皇が幽囚の身に置かれたのだから、このうえなく無様な展開となった。
 ピウス9世は、1878年に死去した。葬儀の際、一部の民衆は教皇への憤りを表し、棺が川に投げ込まれそうになったと伝えられる。
 後任のレオ13世は、守旧化したカトリック教会の教義の支柱となったトマス・アクイナスを教会の最高博士に叙任した。これによって、中世のトマスの思想に基づくトミズムが、近代のカトリックの教義を補強することになった。

●カトリック内の反対勢力

 第1ヴァチカン公会議による教皇権の強化に対しては、カトリック教会内の一部から強い反発が起こった。教義憲章に賛同しない司教・司祭は、カトリック教会から離脱した。それによって生まれた教会を、英語でオールド・カトリック・チャーチといい、復古カトリック教会または古カトリック教会と訳す。
 教皇不可謬説に反対し続けていたドイツの神学者ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーは、ローマ・カトリック教会から1871年に破門された。彼は、同じように教皇の不可謬性を否定する聖職者・信徒の運動に加わり、その指導者となった。
 1873年、復古カトリック教会が、ローマ・カトリック教会とは別の独立組織として、南ドイツのコンスタンツで設立された。この教派は、教義に関しては、聖書と聖伝を信仰の規範とする点ではローマ・カトリック教会と同じだが、教皇首位説と教皇不可謬説を認めない。教皇ピウス9世は73年に回勅で、「教会の基礎を破壊する滅びの子たちである」と非難した。だが、復古カトリック主義の信念は固く、ドイツ、オーストリア、スイス、オランダなどに信者が分布するほか、アメリカなどにも教会がある。同教会は、第1ヴァチカン公会議以前のカトリック教会を肯定する点で、プロテスタントとは違う。また「復古」といっても、第1ヴァチカン公会議の前に戻すというものである。
 ところで、1880年、ロシアからカトリック教会に向けて痛烈な批判の矢が放たれた。ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章がそれである。この問題作については、後の項目に記す。

 次回に続く。

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