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2019年01月22日09:29

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キリスト教150〜キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

●キリスト教的実存主義と無神論的実存主義

 ティリッヒの項目に、彼がその哲学的神学の中に実存主義を摂取したと書いた。実存主義は、ジャン=ポール・サルトルが提唱した思想である。フランス人だが、ドイツの実存哲学との関係でここに補足として書く。
 サルトルは、1905年にフランスに生まれ、哲学者としてとともに小説家・劇作家としても活躍した。1930年代にドイツに留学し、フッサールに現象学を、ハイデガーに存在論を学んだ。そして、1943年(昭和18年)に刊行した『存在と無』で、自らの現象学的存在論を体系的に叙述した。
 サルトルは、本書で、ユダヤ=キリスト教的な世界観に対して、それを否定する無神論的世界観を提示した。もし無から万物を創造した神が存在するならば、神は自ら創造するものが何であるか(本質)を分かっているから、すべてのものは現実に存在する前に、神によって本質を決定されていることになる。この場合は、本質が実存に先立つ。しかし、逆に神が存在しないとすれば、すべてのものはその本質を決定されることなく、現実に存在することになる。この場合は、実存が本質に先立つことになる。サルトルは、後者の世界認識を打ち出した。
 サルトルは、1946年(昭和21年)刊行の『実存主義はヒューマニズムである』で、実存主義を宣言した。実存主義は、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場である。サルトルによると、事物はただ在るに過ぎない即自存在(être-en-soi)だが、人間的実存は自己を意識する対自存在(être-pour-soi)である。対自存在は存在と呼ばれてもそれ自身は無である。人間は、あらかじめ本質を持っていない。人間とは、自分が自ら創りあげるものに他ならない。人間は自分の本質を創る自由を持っている。それゆえに、その責任はすべて自分に返ってくる。「人間は自由という刑に処せられている」とサルトルは言う。
 人間はだれしも自分の置かれた状況に条件づけられ、拘束されている。人間を条件づけているのは、政治・社会・歴史など世界の全体である。人間は世界に働きかけて、選択の可能性を広げ、自己をますます解放しなければならない。このように説くサルトルは、アンガージュマン(政治参加・社会参加)の必要性を訴えた。核時代に入り、米ソ両大国の冷戦が続く状況において、世界を変えるために行動を呼びかけるものだった。その主張は、戦後の虚無感に苛まれていたフランスの青年層に強い共感を与え、さらに世界的に影響を広げた。1950年代から60年代にかけて、実存主義は、マルクス主義と並ぶ二大思潮となった。
 キリスト教と実存主義の関係について述べると、サルトルは、実存主義をキリスト教的実存主義と無神論的実存主義に分類した。キリスト教的実存主義者には、キルケゴール、ヤスパース、マルセルらが挙げられる。これに対し、無神論的実存主義者には、ニーチェやサルトル自身が挙げられる。
 実存に関する哲学を説くことと、実存主義とは必ずしも一致しない。サルトルはハイデガーを無神論的実存主義者としたが、ハイデガーは自らを実存主義者とは区別した。彼は、形而上学の始源以前に遡って、存在に関する思考を行っており、サルトルが言うような実存主義者ではない。また、キリスト教を否定しているわけではなく、キリスト教を否定するという意味での無神論者でもない。彼とよく対照されるヤスパースはキリスト教の枠組みを出ており、キリスト教的というより有神論的と言うべきである。また、サルトル流の実存主義者というより、実存哲学者である。サルトルは、ティリッヒに言及していないようだが、ティリッヒはキリスト教的実存主義者と位置づけることが可能だろう。
 サルトルの影響を受けて実存主義の範囲を広く取る者は、パスカル、シェリング、ベルジャーエフらを含めたり、文学におけるドストエフスキー、カミュ、カフカらや美術におけるジャコメッティ、ビュッフェらにも広げたりする。そのように広げるほど、実存の規定が曖昧になり、本質と実存という対概念の対比による論理的な思考から離れていく。実存は、人間存在の不安やおののき、孤独、虚無感といった心理を象徴的に表す言葉になる。
 こうした心理は、キリスト教的な神を信じる、信じない、疑う、疑わないという考え方の違いに関わらず、近代人・現代人の心に生じるものである。また、時代や宗教、思想の違いに関わらず、人間が人間である限り、心に抱くものともいえる。
 今日、キリスト教がこうした人間の不安やおののき等を解決し、心の救いや安らぎ、希望を人々に与え得るかどうか、それが問われている。キリスト教は、人間の在り方を原罪または堕落という観念で説明する。神学者や哲学者は、神話的な表現を避けて、疎外の概念で説明する。だが、そうした観念や概念を以て考え方を変えるだけでは、不安やおののき等は根本的には解決しない。先の問いの答えを提示できるかどうかは、病気や事故・災難、出産に伴う危険、死に伴う恐怖や苦痛、人間関係や能力・運命等の悩みを、具体的にまた実際的に解決する力があるかどうかによる。突き詰めれば、真理の現れとしての救いの実証があるかどうかによるのである。

 次回に続く。

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