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2018年06月01日10:02

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ファンタジーの中へ(98) ジャン=ミシェル・ヴィスメール「ハイジ神話 世界を征服したアルプスの少女」晃洋書房2015

 1枚目 ヨハンナ・シュピーリ(1827−1901)
 2枚目 映画ハイジ 山羊とアルムおじさんと
 3枚目 映画ハイジ ゼーゼマン家の晩餐 ハイジ 後ろ向きがクララ、向こう側が家政婦頭のフロイライン・ロッテンマイヤー

 本書より先に、
 森田安一「ハイジの生まれた世界 ヨハンナ・シュピーリと近代スイス」教文館2017を読んでいたのだが、こちらはヨハンナの父系3代に焦点を当てた地域史というべきで、しかもプロテスタントの革新運動である敬虔主義やスイス政治の激動(フランス革命の余波など)に焦点を当てている。ヨハンナの父系には牧師が多く、特に敬虔主義を主唱した人物もいたし、ヨナンナも彼女の母で詩人のメタ・ホイサー=シュバイツアーも信仰の人だったからである。
 しかしながら、私は、ヨハンナの伝記のつもりだったのに複雑な敬虔主義運動や政治の動きを理解するに往生して降参だった。ヨハンナの曽祖父はフランス革命のスイスへの侵入に対して信仰者の立場から戦ったとのことだが。

 しかし、「ハイジ神話」は面白く読めるエッセイだった。
 なぜ神話かと言うと、スイスではウィリアム・テルに匹敵するからとのことらしい。それに世界的なベストセラーであり、特に日本からはハイジの聖地巡礼団が押し掛けるからでもある。

 1.ヨハンナの両親
 アルムおじさんとハイジの住むアルム山やその麓のデルフリ村はフィクションであるが、最寄り駅のあるマイエンフェルトは実在の街である。ヨハンナの家族はしばしば近くにあるラガーツ温泉に滞在していたとのことで、ハイジの舞台に利用した。
 ヨハンナの実家は、そこより北西100キロほど(だったと思うが)離れたヒルツェル村(チューリッヒに近い)で、父は医者で精神科医だったが妻の実家で病院を開業した。母は牧師の娘であったが、結婚したからは助手として忙しくしていたのだが、一方では著名な宗教詩人であった。今も歌われる讃美歌の作詞者として名を残している。
 ☆海風:母親のメタは忙しく多方面に活動していて、娘の相手はしなかったらしい。
そのせいか、ハイジもそうだが孤児を主人公にすることが多く、母親の代わりに優しいおばあさんが登場する。

 2.ヨハンナの複雑な性格と生涯
 「ヨハンナの両親は保守的で、ヨハンナにとっては因習的な壁であった。その結果、鬱に苦しみ、敬虔主義の信仰に没頭し、そして読書や音楽、自然との対話に逃げ場を求めた。

 1852年にチューリッヒの法律家で新聞の編集長でもあるベルンハルト・シュピーリと結婚した。彼は広い交友関係があり、その縁で有名な作家(日本では知られていない)コンラート・フェルディナント・マイヤー、ゴットフリート・ケラー、そしてチューリッヒに亡命していたリヒャルト・ワーグナーとも友人になった。
 特にマイヤーはヨハンナの作家活動にいろいろ助言してくれて、さらに、彼の母エリーザベト・マイヤーは敬虔主義の信仰においてヨハンナの導き手となったし、マイヤーの妹エリーザベト(ベッツィ)・マイヤーとは親友で、相談相手でもあった。」
 ☆海風:日本ではマイヤーは知られていないと思う。私もケラー「緑のハインリッヒ」は愛読していて、ヒロインはミニョンや「風立ちぬ」みたいな薄命の美少女だった。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」の影響を受けた教養小説で、同じく「ハイジ」もゲーテの影響下にあった。ハイジとミニョンは孤児であること、故郷に焦がれていることなどの共通点がある。

 「しかし、チューリッヒでの結婚生活は幸せとは言えなかった。ホームシックになったのだが、夫は仕事に忙しく家庭的ではなかったし、ヨハンナも料理が苦手でよい主婦とは言えなかったからである。
 一人息子は病弱ではあったが、音楽の才能があり、マイヤー一家(とそのサロン)との交友と共にヨハンナの救いとなっていた。
 1871年にヨハンナが作家活動を始めたのだが、そのきっかけはマイヤー家のサロンの慈善活動をしていた友人に勧められてのこと。もともと夫の新聞に詩を書いていたこともあり、文才は知られていたのである。
 1880年に、代表作となった「ハイジ」(原題は「ハイジの修行時代と遍歴時代」、後編「ハイジは習ったことを役立てる」)が発表され、一気に世界的作家になった。

 1884年 一人息子のベルンハルト・ディートヘルムが29歳で亡くなり、続いて夫も世を去った。ヨハンナは故郷のヒルツェル村に戻って創作活動を続ける。」
 ☆海風:母とも夫とも心が通じなかったようで、その代わりになったのが、幼い時は叔母さんで、成人してからはマイヤー一家だった。彼らと共通する信仰を児童小説としたもので、一種の告白小説ともいえると思う。ヨハンナは死ぬ前に、一切の手紙や記録を焼却し伝記が書かれることを拒否していた。自分のすべては小説の中に書き込んだ、というのがその理由だった。

 3.自然との融合 
 ハイジが初めてペーターに連れられて山羊の牧草地まで登った時、
 「はるか下の谷は、朝の光できらきら光っています。目の前には雪原も広がっていて、その左には恐ろしく大きな岩山が真っ青な空にそびえていました。・・・どこまでも深い静けさに包まれています。ときおりそよ風が吹いてきて、青いツリガネソウや、金色にかがやくロックウーズの細い茎をやさしくゆらしているだけでした。」
 ☆海風:自然信仰というべきだが、「赤毛のアン」1908 の自然への陶酔にも似ている。むろん「ハイジ」1880 の方が先なので、モンゴメリは読んでいたのかもしれない。

 4.子どもの目でみた世界
 山の世界を牧歌的に描いているとの批判があるが、ペーターの家族は貧しいし、アルムおじさんがやさしいのはハイジと彼女の友達になってくれたペーターにだけである。
評論家のベッテルハイムが言うように、「厳密にリアリスティックな物語は、子どもの内的な経験と衝突する」のである。
 ☆海風:日本の童話や少年小説は徹底的にリアリズムだった。それで、リアリズムに反したファンタジーの宮沢賢治は、鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」から門前払いされていたのである。戦後は尚更プロレタリア文学の影響下にあった。
 今は、少なくとも国際アンデルセン賞を受けた作家二人(上橋菜穂子と角野栄子)はファンタジー派であるが。

 5.ペーターのおばあさん
 「ハイジと目の見えないおばあさんの出会いは、またしてもメルヘン特有の人物性格の特徴を示している。
 おばあさんの目が見えず、周囲の美しい自然を見ることができないという事実を、ハイジは理解できず、また受け容れられず,何とかして見えるようにしてあげようと思う。」
そこで、窓の鎧戸をアルムおじさんに修繕してもらったら明るくなって目に光が戻るのではと考える。さらに役に立ったのは、ことこまかくアルムおじさんの山小屋の生活を聞かせてあげたことだった。
 ☆海風:確かに「ハイジ」は読み聞かせができる。父が病院長で、いろいろな患者に接していたことがモチーフとなっているのだろう。

 6.自然と教育
 孤児のハイジは5歳の時にデーテ叔母さんに祖父の山小屋へ連れてこられ、今は8歳になっている。本当なら1年前に学校へ行かねばならなかった。
 しかし先生が説得しても追い返されるだけで、とうとう牧師が山小屋にやってくる。
 「あの子をどう育てていくつもりかね?」
 「なにもしない。あの子はヤギや鳥たちと、どんどん育っていく。動物たちといれば、すこやかに育ち、悪いことはなにも学ばないですむ。」
 「だが、あの子はヤギや鳥じゃない。人間のこどもなんです。このままでは悪いことは学ばないだろうが、ほかのことも何も学ばない。」
 ☆海風:心を閉ざしていたアルムおじさんは、ハイジがフランクフルトへ連れ去られたことで一層引きこもってしまった。それがハイジの帰郷で一気に回心するのである。
 ハイジは確かにおじいさんに「放蕩息子の帰郷」の話をするのだが、そして本書でも、それが回心させたというのだが、むしろ、もう生きては会えないと思っていたハイジ自身が目の前にいることに(キリストの復活のような)奇跡を見たに違いないのである。

 7.クララのおばあさま
 「ハイジは大都会フランクフルトに全くなじめず、クララを面白がらせるものの、ロッテンマイヤーなど使用人にあきれられ、本人もカルチャーショックを受ける。クララの勉強の友にと連れてこられたのに、文字を学ぶ気になれないのである。文字を見ても、その形からヤギだの鷹を思い出してしまう。
 クララのおばあさまはハイジに絵本を与えて想像力を働かせる楽しみを教える。
それでも、山に帰れないと分かったハイジはどんどん追い詰められてゆく。おばあさまは、自分の敬虔主義的な心情に従って、お祈りをして神さまを信じるように諭す。」
 ☆海風:アルチュール・ランボーはアルファベット文字に(形からか発音からか知らないが)色を見たとのことだが、ハイジは大元の象形文字を感知したらしい。

 「しかしお祈りをしても帰れないハイジは夢遊病を発病してしまった。
 ゼーゼマン氏の友人の医師は、すぐにアルム山に帰すこと、アルプスの山の空気だけしかハイジを癒すことはできないと宣告する。
 この考え方が、やがて高地のサナトリウムに莫大な収入をもたらすことになる。」
 ☆海風:マッターホルンの初登頂に成功したウィンパー(1840−1911)は画家だった。そのころから観光や避暑地として人気の出だしたアルプスの絵を描いて生計を立てていたのである。今なら観光地用の写真家に近い。
 それまで傭兵しか(ヤギのチーズもあったか?)生産物のなかったスイスは、後の精密機械工業も含めてきれいな空気と冷涼な気候、それに荘厳で美しい山で一躍有名になった。そもそもハイジがフランクフルトに呼ばれたのは(ハイジの遍歴時代)、フロイライン・ロッテンマイヤーのアルプス信仰が原因だった。そしてハイジを見たとたんにアルプス熱は冷めてしまったのだが。
 で、「ハイジ」自身もスイスの評価を一層引き上げることになった。「赤毛のアン」がプリンス・エドワード島を観光地の国立公園にしたように。

 8.敬虔主義という背景
 カトリックの堕落を批判して新しくうまれたルターのプロテスタントではあるが、17世紀には、形骸化にあきたらないルター派の人々が秘密集会を開きアルザスの牧師フィリップ・ヤーコプ・シュペナーの「敬虔の望み」に説かれた教えを実践するようになった。
 この敬虔主義とは理性によって神に至る道を否定し、個人的な祈りによってこそ神に近づけるとする教えである。説教壇からのすばらしい教えを聞くよりも、日々の暮らしの中で祈ることで内面の回心を目指すのである。
 ☆海風:自分自身の生活を自省するなかで神を見出そうとするのが敬虔主義だと思う。信仰とは聖書の知識ではない。論語読みの論語知らずに陥ってしまうのは洋の東西を問わない。
 ということで、ヨハンナ・ジュピーリは宗教小説家だった。日本でいえば「氷点」などの三浦綾子なのだと思う。古くは強食弱肉の修羅の世をブラックユーモアで描き、浄土の美しさとその一端が修羅の現世に現れるのを、あるいは浄土を作ろうとする人々を描いた宮沢賢治であろう。自然賛歌でも似ている。

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