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2018年03月26日09:29

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キリスト教26〜地獄・煉獄

●地獄

 ユダヤ教では、天国とともに地獄もまた明確な場所の概念ではない。地獄とは、神から離反している状態と考えられる。この点は、キリスト教でも基本的に同様である。しかし、天国と同様に地獄もまた人が死後行くかもしれない実在する世界または領域と考えられている。ただし、聖書のどこにも、地獄の空間的・場所的な位置について記していない。天国と同様である。
新約聖書は、次のように地獄を描いている。「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ書3章41〜42節)。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(同書25章41節)。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。」(マルコ書9章48〜49節)と。
 地獄における火のイメージは、ユダヤ教はもちろん、仏教にもイスラーム教にも共通している。身体が火で焼かれるというのに、蛆が出るのはおかしい感じがするが、蛆がわくということは、遺体の腐敗を示している。その腐敗する身体が火で焼かれるということだろう。
上記のように描かれるキリスト教の地獄は、神から分離した状態であり、神の恩寵から見放された状態である。キリスト教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。地獄に堕ちるということは、絶対に許されない刑に服すことである。
 イスラーム教でも、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。ただし、永遠の地獄に送られるのは、イスラーム教徒以外である。アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。イスラーム教徒については、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、アッラー以外の神を拝まない限り、最終的にはアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。そこで家族みなで暮らせるというわけである。これに比べ、キリスト教の刑罰は、このうえなく厳しい。イエス・キリストはすべての人を救う救済者ではなく、最後の審判で一部の者には永遠の生命を与えるが、残りの者には永遠の地獄に送る厳格な審判者である。
 仏教の場合は、地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。

●煉獄

 キリスト教の地獄は、永遠の責め苦を受ける場所である。だが、ローマ・カトリック教会は、中世に煉獄という場所を考え出した。煉獄の原語は、ラテン語で「プルガトリウム(purgatorium)」という。「浄化の手段」「浄化の場所」という意味である。浄罪界とも訳す。
 大多数の人間は、死後ただちに天国に入れるほど完全ではない。だが、地獄に堕ちるほど極悪非道でもない。そこで、設けられたのが、煉獄である。この世において、それほど重大ではないが、小さな罪をいくつか犯し、その罪の償いを果たさないままに死んだ者の魂は、そのまま天国に入ることはできない。その罪の償いを果たさねばならない。それまでの間、霊魂が苦しみを受ける場所が、煉獄である。煉獄において、魂は業火によって罪の浄化を受ける。罪が浄化され、天国に入れるだけの完全さを備えたならば、天国に入ることができるようになるというわけである。
 ローマ・カトリック教会は、煉獄を正式の教義にした。東方正教会は、煉獄における浄化いよる救いの思想を認めているが、正式の教義にまではしていない。一方、プロテスタントは、煉獄を認めていない。聖書のどこにも記述がないからである。
 キリスト教の地獄は、永遠の死であるから、いわば絶対に償いに終わりのない無期懲役である。これに対し、煉獄は有期刑の償いの場所である。それゆえ、煉獄は、同じく有期刑である仏教の地獄に対比されるべきものである。

●死者への祈り

 キリスト教は、祖先崇拝・自然崇拝を否定し、自らが仰ぐ超越神以外の人間神・自然神・宇宙神をすべて偶像として排斥する。
 ローマ帝国で392年にキリスト教が国境になる前、古代ギリシャ・ローマの民は、祖先の霊魂を崇拝し、家制度をその信仰の上に築いていた。しかし、キリスト教は祖先崇拝を偶像崇拝として排斥した。
 祖先崇拝には、祖先を神または力のある霊と仰ぎ、祖先に感謝するとともに、祖先に対して子孫を加護してくれるように願うという面と、子孫が他の神や霊に祈って祖先の霊の苦しみを救うとか霊を慰める儀礼を行うという面がある。
 キリスト教の教えによれば、祖先に対する加護の祈念は、偶像崇拝になるはずである。だが、ローマ・カトリック教会では、死者のために祈り、死者のためにミサを捧げる習慣がある。信者は煉獄にいる家族・親族、友人のために祈り、助けることを勧められている。ミサにも煉獄にいる霊を援ける働きがあると説いている。また亡くなった家族・親族の遺影を飾って、しばしばその人のために祈る。逆に、亡くなった家族・親族や友人の霊に支援を願う祈りも行っている。また、信者が人生の途上でさまざまな試練に遭遇するとき、神のもとに召された近親者や友人の霊が、とりなしの祈りをしてくれることを信じている。こうした実践は、わが国の神道や仏教における祖先崇拝に通じるものがある。カトリック教会と違ってプロテスタントでは、亡くなった霊に加護を祈ることはしない。煉獄の存在を認めず、亡くなった霊は神に任せ、信者が祈ることはしないという態度を取る。
 人類社会の多くには、死者が霊界で救われていない場合、遺族や子孫等に頼って憑くという現象が見られる。仏教では、これを成仏できていない霊とみなし、読経をして供養を行う。新約聖書に、イエスが人々から悪霊を追い出し、悪霊が豚に移って海に飛び込むという記述がある。キリスト教では、降霊や憑霊等の霊的現象は悪霊の仕業と見られ、エクソシズム(悪魔祓い)の対象とされる。仮に祖先の霊が救いを求めて子孫に訴えてきても、これを追い払おうとするならば、霊を憤らせ、災いを招く恐れがあるだろう。

 次回に続く。

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