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2016年05月25日08:52

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人権312〜サンデルにおける正義と善の結合

●正義と善の結合

 サンデルの連帯の義務は、カントやロールズの正義論のように正義と善を区別するのではなく、正義と善を結合する必要があることを説くものである。
 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」の概念は、正義と善は切り離すことができ、正義は善よりも優先されるという考え方と深く結びついたものだと指摘する。
 サンデルの理解するところでは、カントは、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されることはないと考えた。人間の自由は道徳的存在であることによる。道徳的存在は理性によって自らの行動原理を自由に定めることができる。この考え方によれば、正義と善は区別でき、正義は善よりも優先される。前期ロールズは、こうしたカントの思想を継承している。彼らは、自由に選択できる「負荷なき自己」という自己認識に立っているから、このように正義と善の関係を説くのである。
 これに対し、サンデルは、「位置づけられた自己」という別の自己認識を示す。「位置づけられた自己」は、連帯の義務を負う。連帯の義務においては、カントやロールズにおける正義と善の関係とは異なった正義と善の関係が示される。
 サンデルは、ロールズ的な自由主義と自分の見解の争点は、正義が重要かどうかではないという。「そうではなく、善い生き方について特定の考え方を前提とせずに正義を規定し、正当化できるかどうかである。問題は、個人の主張とコミュニティの主張のどちらを重視すべきかではない。そうではなく、社会の基本構造を支配する正義の原理が、市民の抱く相容れない道徳的・宗教的な信念に関して中立であり得るかということだ。言い換えれば、根本的な問題は、正義は善に優先するかどうかである」と問題の焦点を示す。
 そして、次のように述べる。「カントにとってもロールズにとっても、正義の善に対する優先は、二つの主張を意味している。それらを区別するのが大事である。一つ目の主張は、ある種の個人的な権利は非常に重要なものであり、公共の福祉ですらそれを踏みにじることは許されないという主張である。二つ目の主張は、われわれの権利を規定する正義の原理の正当性は、善い生き方をめぐる特定の構想、最近のロールズの表現を借りれば、包括的な道徳的・宗教的構想に依拠するものではないという主張である」と。そしてサンデルは、「自分が異議を唱えるのは二つ目の主張であり、一つ目の主張ではない」と言う。
 サンデルは、カントや前期ロールズにならって、普遍的な人権を尊重する。また人類には、普遍的な自然的義務があることを肯定する。サンデルは、カントの『道徳形而上学原論』(別訳は『人倫の形而上学の基礎づけ』、1785年)について、本書は「18世紀の革命主義者が人間の権利と呼んだもの、そして21世紀初頭のわれわれが普遍的人権と呼んでいるものの強固な礎となっている」という。
 カントについて、サンデルは、次のように述べている。「カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在である。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからである。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある」「われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものである。この能力が人格と物とを隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことである」「カントのいう尊厳は、人間性そのものへの尊敬であり、すべての人に平等に備わっている理性的な能力への尊敬である。だから自分自身の人間性を侵害するのは、他者の人間性を侵害するのと同じように好ましくない。だからこそカントの尊敬の原理は、普遍的人権主義に一役買っているのである。カントにとっては、すべての人間の人権を守ることが正義である。相手がどこに住んでいようと、相手を個人的に知っていようといまいと関係ない。ただ相手が人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存在だから、人権は守られるべきなのである」と。
 今日の普遍的人権という観念にカントが強い影響を与えていることを、これほど明確に述べているものは他になかなかないほど、サンデルはカントの思想に従っている。
 サンデルはカントを踏まえて次のように言う。「あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である」と。
 サンデルは、こうしてカント主義的な普遍的義務を認めた上で、人間には家族・部族・民族・国民等の共同体における特殊的な義務、連帯の義務のあることを強調する。連帯の義務は、正義を善と区別し、正義を善より優先する考え方では説明できない。連帯の義務のあることを認めるならば、正義と善を切り離して考えることはできないというわけである。
 サンデルは、次のように説く。「哲学的な問題としては、正義に関するわれわれの省察は、善い生き方の本性や人間の最高の目標に関する省察から合理的には切り離せない。政治的な問題としては、正義や権利について討議する場合、その討議の土俵となる多くの文化や伝統の中に現れる善の概念に言及しない限り、前進はあり得ない」と。
 またサンデルは、次のようにも述べている。「平等主義であれリバータリアニズムであれ、権利に基づく自由主義の出発点には、次のような主張がある。すなわち、われわれはバラバラの独立した個人であり、それぞれが自分なりの目的、関心、善の概念を持っているという主張である」と。
 サンデルは、平等重視的なロールズやドゥオーキン、また自由至上的なノージックの個人主義的自由主義は、権利基底的な理論だと見ている。権利基底的な理論は、個人の権利は、共同体の目的やカント的な義務に先立つという理論である。権利基底的な自由主義は、「負荷なき自己」を前提としている。自己は善を選択する自由を持ち、正義は私的な善を選択する権利を保障する枠組みのこととする。権利基底的な理論は、正義と善を区別し、正義を善より優先する。サンデルは、これに対して、「位置づけられた自己」を対置し、正義と善は切り離せないと反論する。
 私は、この点においてサンデルの見解を支持する。実際の社会は、個々に全く異なる善の構想を持つバラバラの個人の集合ではない。歴史的・社会的・文化的に共通の価値を形成し、その価値を世代から世代へと継承してきた集団である。その集団は、共通の価値としての公共善を持っている。それが集団の目的でもある。集団の中で生まれ育った諸個人は、自ずとその共通の善のもとに価値観を形成する。諸個人の権利を保障する枠組みも、自ずと公共善を踏まえたものとなる。正義の前提として公共善が存在する。私的ではなく公的な善が、正義に先立つ。公的な善の実現という集団の目的が、私的な善の選択という個人の権利に先立つ。
 正義は法に表現される。成文憲法を持たない国家または社会では、社会規範の中に集団の目的としての公共善が盛られており、公共善に基づく規範が正義の原理となっている。成文憲法を持つ国家では、憲法に国家の目的としての公共善が書かれ、それを実現するための正義が表わされ、憲法のもとに個別的な法が制定されている。この公共善と正義の体系の中で、諸個人の権利の保障が規定されている。諸個人の権利は、基本的な人権とされる場合と、国民の権利とされる場合があるが、どちらにしても、実態としてはまず集団の権利があり、そのもとに個人の権利が承認されている。集団の権利は、公共善を実現するための権利であり、その目的のもとに集団の合意によって行使される。

 次回に続く。

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