mixiユーザー(id:525191)

2016年03月01日09:13

506 view

人権275〜日本における人権の観念と現行憲法

●日本における人権の観念

 ここでわが国における人権の現状と課題について述べたい。
 毎年、12月10日は世界人権デーとされている。世界人権デーは、1948年(昭和23年)12月10日に第3回国際連合総会で世界人権宣言が採択されたことを記念して設けられた日である。この日は国連を中心に記念行事が行われる。わが国では、法務省と全国人権擁護委員連合会が1949年(昭和24年)から毎年12月4日から10日まで)を人権週間と定めている。この期間中、世界人権宣言の趣旨及びその重要性を広く国民に訴えかけるとともに、人権尊重思想の普及高揚を図るため、集中的な啓発活動が行われる。
 国際的な人権保障と国家主権は、一面で依存的、半面で対立的な関係にある。個人の権利のみを追及すれば、国家主権は侵害される。逆に集団の権利のみを追求すれば、個人の権利は保障を失う。人権は、普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・文化的・社会的に発達する「人間的な権利」である。また集団の権利あっての個人の権利である。そのことを確認したうえで、個人の権利を尊重するものでなければならない。
 だが、わが国の左翼や個人主義者は、国際機関を通じて、市民の権利を追求し、国家主権を弱めようとする。その動きは、中国・韓国・北朝鮮による反日攻勢に連携するものとなっている。また国連や各国のNGO等には、国際的な左翼がおり、わが国の左翼人権主義者と連携しているものと見られる。
 さて、わが国の人権の現状と課題を論じるには、大東亜戦争の敗戦後、占領下において制定された日本国憲法から述べなければならない。現行憲法は、GHQが秘密裏に英文で起草した原案がもとになった。この憲法は「基本的人権」の保障を原則の一つとしているとされ、今日、日本人が人権について考える時は、ほとんど現行憲法の思想に基づいている。そして、日本国民の多数は、人権は「人間が生まれながらに平等に持っている権利」と考えている。だが、現行憲法は、人権とは何かを定義していない。定義のないまま「基本的人権」という用語が使われている。人権の語は前文にはなく、すべての条文のうち、第11条と第97条にのみ現れる。
 現行憲法は、第11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と定めている。この権利の保障の対象は、日本国民である。だが「基本的人権」には、人間一般の基本的な権利という含意がある。では人間とは何か、人間はなぜそのような権利を持つのか、その根拠は何か、またどうしてその権利を、現行憲法は日本国民に保障するのか。現行憲法は、これらについて、具体的に記さぬまま、条文を連ねていく。そして、第97条にようやく、次のように記されていることにぶつかる。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」。
 「人類の多年にわたる自由獲得の努力」とは、どういう努力なのか、「過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」とは、どういう過去なのか、そしていつどのように信託されたのか。具体的でない。なにより国民に「基本的人権」を信託したのは誰なのか。天皇なのか、過去の世代なのか、GHQなのか、そもそもその主体がはっきりしない。
 もともと人権が生まれながらに誰もが平等に持っている権利であるならば、誰かが国民に信託するまでもなく、国民がみな生まれながらに平等に所有しているはずだから、あえて信託する必要はない。その本来的状態を確認するだけで足りる。また、人権が生まれながらに誰もが平等に持っている権利であるならば、人類が多年にわたって自由を獲得する努力をしなければならなかったというのもおかしい。第97条の条文は、人権とは普遍的・生得的な権利ではなく、歴史的・社会的・文化的に「発達する人間的な権利」であることを含意していると解さざるを得ない。一般に言う人権は、狭義の場合は「普遍的でありたい権利」「普遍的であるべき権利」であり、広義の場合は国民や集団の成員、性別・年齢等に限定される特殊的な権利を含む権利一般である。この区別によれば、日本国憲法における人権とは、狭義の人権ではなく、広義の人権であるということになる。
 人権について、こういう具合だから、現行憲法は、人間の尊厳についても、具体的に記していない。そもそも人間の尊厳という概念が盛られていない。条文に出てくるのは「個人の尊厳」である。また出てくるのは、第24条ただ1か所である。この点については、次項で個人についての条文を見たうえで述べることにしたい。

●日本国憲法における個人と尊厳

 現行憲法は、個人について、第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と記している。
 ここに個人としての「尊重」が記され、その個人の生命、自由及び幸福追求に対する権利の「尊重」が定められている。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とあるのは、アメリカ独立宣言の直接的な影響だろう。もとはロックであり、ロックにおいては、生命・自由・財産の所有権としていたもののうち、財産の権利が、独立宣言では幸福追求の権利に置き換えられたのである。これらの権利は、自由権を規定するものである。生命、自由及び幸福追求に対する権利を「国民の権利」として尊重するには、その前提としてすべての個人はこの権利を保有するという思想があると推量される。だが、現行憲法はその思想を明示していない。これらの自由権と「基本的人権」との関係も、説明されていない。
 さて、国民は個人として尊重されると記す現行憲法は、第24条に「個人の尊厳」を謳う。人間の尊厳ではなく、個人の尊厳である。第24条は婚姻について定めたもので、第1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とし、2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」としている。現行憲法では、この第24条2項においてのみ、「個人の尊厳」が記されている。婚姻に関する条項において、また「両性の本質的平等」との関係でのみ、個人の尊厳が記されているわけである。
 このように現行憲法は国民に基本的人権を保障すると謳っていながら、人権保有の理由である人間の尊厳について、直接述べていない。個人の尊厳について、限られた関係において触れるのみである。また、現行憲法には、人格という概念がない。国民が個人として尊重されるとしてはいるが、それは個人が人格的存在だからとは、みなしていないのである。国民は、憲法の条文の文言から、憲法の基づく人間観を想像し、人間の尊厳や個人の人格について推察するしかないのである。

●世界人権宣言等と日本の人権

 わが国は現行憲法のもと、昭和27年(1952)4月28日独立を回復した。そして、「国際連合=連合国」に加盟し、世界人権宣言に参加した。続いて国際人権規約も締結した。その他、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、児童の権利条約、拷問禁止条約等も締約している。その「宣言」にしても「規約」にしても、他の特殊的な国際人権条約にしても、人間の尊厳や個人の人格について、具体的に記していない。人間がなぜ生まれながらに、侵しがたいほどの価値を持つのか。その根拠は何か。「宣言」及び「規約」等の文言から、それらの依って立つ人間観を推量するしかない。日本国民にとって、人権は決して自明なものではない。人間の尊厳についても、個人の人格についても、憲法やこれらの国際人権条約に、明確なものを見出せないのである。
 ところで、わが国において、日本国民とは、日本国籍を持つ者をいう。国籍とは国民の資格である。憲法は、日本国の国民という資格をもった者に対して、基本的人権を保障している。他国民や無国籍者に対しても、まったく同等に保障するものではない。日本国憲法が保障する基本的人権は、日本国籍という資格を持つ者にのみ保障される特殊的な権利である。国民の権利である。外国人に対しては、限定した範囲でのみ権利を保障している。日本国民と非国民は、権利において平等ではない。日本国政府は、諸外国の人間に対して一定の保護や支援はするが、日本国籍を持つ人間に対してと同じようには対応しない。非国民に対しても日本国民と全く同等に保障するとは定めていない。またその義務を負わない。
 もし日本国憲法が保障する基本的人権が、真に普遍的な人権であるならば、日本国政府は、他国民に対しても、国民と同様に保障しなければならない。貧困や不衛生や内戦等の状態にある国の国民に対しても、自国民と同様に施策を行わねばならないことになる。だが、実際にはそうではない。
 それゆえ、日本国憲法が保障する権利は「国民の権利」である。外国籍の住民は、その所属国の政府がその国の「国民の権利」として保障すべきものである。
 ところが、日本国憲法が保障する権利は「国民の権利」でありながら、普遍的・生得的な権利という近代西欧的な人権の観念に基づくもののようであり、そのうえで国民に対して「基本的人権」を保障するらしき規定になっている。これは、普遍的権利と特殊的権利を区別せず、人権の狭義と広義を区別せずに、条文を作成したからである。現行憲法は、第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めているが、「健康で文化的な最低限度の生活」は一定の基準があるのではなく、社会の発達度合いや意識の変化によって「文化的」や「最低限度」の基準が変わっていく。人権は「発達する人間的な権利」であり、「人間的な」という時の「人間らしさ」は歴史的・社会的・文化的に変化する。それはもともと人権として観念されてきた権利が「発達する人間的な権利」であるからにほかならない。
 日本国憲法は、極めて欠陥の多い憲法だが、人権についても欠陥を持つ。それは、欠陥思想に基づいているからである。その欠陥思想に基づく憲法の条文を根拠に、普遍的・生得的な人権を説き、虚構の人権の拡大を諮り、人権侵害の救済機関を設けるなどの動きがあるのは、国民を欺き、誤導するものである。

 次回に続く。
5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する