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2016年02月29日09:28

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イスラーム22〜イラン・イラク戦争、湾岸戦争

●イラン・イラク戦争

 一旦話を1979年(昭和54年)のイラン革命の時点に戻して、イラクの動向を見よう。イラン革命が起きると、アラブ諸国は、米国とともに、革命の波が石油を産出するサウジアラビア、クウェートなどの君主国に及ぶことを恐れた。そして、イラクを「イラン革命の防波堤」と見なして期待をかけた。
 イラクでは、シーア派が人口の約60%を占め、主に南部に居住する。イラクのシーア派は、イランと同じ12イマーム派である。スンナ派は、少数派となっている。
 イラクは、東部・南部でイランに接するほか、多くの国と隣接する。北西部はシリア、最北部はトルコ、中西部はヨルダン、南西部はサウジアラビア、最南部はクウェートという具合である。
 イラクでは、1968年にバース党が、軍部とともにクーデタを起こして政権を奪取し、その政権が続いた。79年にサダム・フセインが大統領の地位に就いた。バース党はアラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とするが、イラクの社会主義は一党独裁によって軍人・官僚が膨大な石油収入を私益化するものとなり、アラブ・ナショナリズムも最初の理想を失い、アラブ至上主義、領土拡張主義に堕してしまった。
 フセインは、イラン革命当時の国際情勢、革命によるイランの軍事的弱体化などの状況を読んで、領土拡張を図った。イラクとイランの間には、シャトルアラブ川下流の国境を巡る対立がある。フセインは、領土紛争を口実に、1980年(昭和55年)9月イランとの戦争を始めた。これがイラン・イラク戦争である。
 フセインはイランに侵攻した。だが、イランはイラクの3倍の人口を持ち、イスラーム革命を唱えるイラン軍の士気も高かった。イラク軍は82年に追い出され、逆にイラン軍がイラクに攻め込んだ。イランの台頭を恐れる米国など西側諸国、サウジアラビアなど湾岸諸国はこぞってフセイン政権に軍事的、財政的支援を与えた。イラク軍は米国から潤沢な援助を受け、アメリカ製武器による近代装備を誇っていた。これをイランが人海戦術で打ち破ることは不可能だった。戦局は膠着化し、イライラ戦争と呼ばれる長期戦が続いた。
 この戦争には、フセイン政権が、シーア派革命の輸出を夢見るホメイニ師指導下のイランを極度に警戒して、イランに先制攻撃を加えたという宗教的な側面もある。イラクのバース党政権は、少数派のスンナ派を母体としており、最初は「脱宗教主義」を取った。フセイン政権は、イランとの戦争では、イラクをまとめあげるため、声高に「イラク・ナショナリズム」を叫んだ。
 1988年(昭和63年)、ようやく両国は国連の停戦決議を受け入れて停戦した。イラン・イラク戦争で、イランは約500億ドル、イラクは約900億ドルの戦費を使い、両国とも財政の悪化に苦しむことになった。それが、後の湾岸戦争の背景となっていく。

●冷戦終結後に、湾岸戦争が勃発

 冷戦時代は、アメリカを盟主とする自由主義とソ連を盟主とする共産主義が世界を二分した。第2次世界大戦が終了した1945年(昭和20年)8月から1989年(平成元年)12月、ブッシュ父とゴルバチョフの米ソ首脳による冷戦終結の共同宣言までの時期が、この時代である。
 ハンチントンによると、冷戦期には、世界が自由主義、共産主義、第三世界と三分されていたが、21世紀初頭の世界は、文化的なアイデンティティの違いにより、7または8の文明によって区分される。また、冷戦時代には、米ソという超大国が二つあったが、今日の世界は一つの超大国(アメリカ)と複数の地域大国からなる一極・多極体制を呈するようになった。そして、ハンチントンは今後、世界は多極化が進み、真の多極・多文明の体制に移行すると予想する。また特に西洋文明とイスラーム文明・シナ文明との対立が強まる。西洋文明対イスラーム=シナ文明連合の対立の時代が来ると警告した。
 冷戦終結後、間もなくイスラーム文明の中心地域である中東で、湾岸戦争が勃発した。イラン・イラク戦争後、イラクは中東の軍事大国となったものの、フランスに約30億ドルという多額の債務を背負っていた。サダム・フセインは、経済危機を解決しようとして、1990年(平成2年)8月クウェートに侵攻した。クウェートの石油を押さえて財政を好転させようとしたことが、直接的な要因である。イラクは、国境地帯にあるクウェートのルイメラ油田はイラクの石油資源を盗掘していると非難した。
 イラクはイギリスがオスマン帝国から切り離して作った国だった。イギリスは、オスマン時代の州の一部をイラク、一部をクウェートとした。そのため、イラクにはクウェートはもともと自国の一部だったという見方があった。
 アメリカは、イラク軍のクウェート侵攻で、西側の石油資源が危機にさらされたと判断した。そして、クウェートの解放、サウジアラビアの防衛を目指す大規模な軍事介入を図った。
 国連安保理はイラクにクウェートからの撤退を要求したが、1991年(平成3年)1月、撤退期限が過ぎた。安保理は全会一致で制裁を決議したものの、国連軍は組織されなかった。安保理決議をもとに、アメリカが主導して、ヨーロッパ諸国、エジプト、シリアなど29カ国の多国籍軍を組織し、1月17日イラクへの攻撃を開始した。これが、湾岸戦争である。
 フセイン大統領は、米国など西側に対抗するため、「異教徒の軍隊に対する聖戦」を呼号した。多国籍軍のバクダッド等への空爆に対し、イラクはイスラエルへのミサイル攻撃で応じた。フセインは、湾岸戦争をパレスチナ問題にリンクさせて戦線の拡大を図った。しかし、これには、イスラエル、アラブ諸国が応じず、結局多国籍軍の圧倒的な軍事力により、空爆からわずか42日間でイラク軍は多国籍軍に敗れた。
 湾岸戦争は、冷戦終結後、初めて起こった大規模な国際紛争だった。この戦争は、それまでの米ソ冷戦による二極的な世界秩序に替わり、アメリカ主導の一極的な世界秩序維持の動きの出発点となった。
 湾岸戦争において、パレスチナの主要組織であるPLOのアラファト議長は、イラク支持を打ち出して国際的に孤立した。そのため、湾岸産油国からの援助が受けられなくなり、パレスチナは経済危機に直面した。1993年、ビル・クリントン米大統領の仲介により、アラファト議長とイスラエルのラビン首相の間でオスロ合意がされた。これによってパレスチナの暫定自治の基本合意が成立した。パレスチナ人の多くは当時レバノンに移住していたが、イスラエル軍が占領しているガザ地区とエリコ地区での自治が認められた。PLOは、テロ行為を放棄し、パレスチナの代表として認知されることになった。だが、95年にラビン首相はユダヤ人の過激派に暗殺され、アラファト議長は2004年(平成16年)に亡くなった。イスラエル首相に対パレスチナ強硬派のネタニヤフが就くと、和平への道は閉ざされた。
 パレスチナでは、1987年(昭和62年)イスラーム教スンナ派の原理主義組織ハマスが創設された。ハマスは比較的穏健なPLOを批判し、対イスラエル強硬路線を鮮明にしている。現在も日常的にイスラエルとパレスチナ側の戦いが執拗に繰り返されている。
 イスラエルは、ユダヤ系の巨大国際金融資本と超大国・米国を後ろ盾としている。強い軍事力と高い諜報力を持ち、また核兵器を所有しているとみられる。ユダヤ教は選民思想を説き、異教徒を敵対視する。強硬派政権のイスラエルの存在は、イスラーム文明の諸国にとって大きな脅威である。イランは、イスラエルの核に対抗するために、核兵器を開発・所有しようとしてきたとみられる。
 中東における対立・抗争は、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教のセム系一神教同士の争いである。またユダヤ=キリスト教系諸文明とイスラーム文明の争いでもある。その争いは人類全体を巻き込みかねない危険性を秘めている。

 次回に続く。
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