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2014年07月10日10:28

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イラクが過激派武装組織の進撃で内戦状態に2

●9・11以後の経緯

 ここで2001年以降のイラクの歴史を振り返ると、多くの謎に包まれた9・11と現在のイラク情勢には深い関係がある。9・11の真相は米国政府によって隠ぺいされており、疑問点は何も解明されていない。詳しくは拙稿「9・11〜欺かれた世界、日本の活路」に書いた。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion12g.htm
 共和党ブッシュ子政権は、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件はイスラム系テロリストによるものだとして、アフガニスタンに侵攻した。さらに、2003年には単独でイラクに侵攻した。フセイン政権は打倒され、米英を中心とする連合国暫定当局の統治を経て、2004年に暫定政権に主権が移譲された。暫定政権は国連安全保障理事会が採択したイラク再建復興プロセスに基づいて、イラクで初めての暫定議会選挙を実施し、暫定国民議会が召集され、国民投票が行われ、憲法が制定された。2005年に正式な議会と政府を選出する議会選挙が行われ。翌年シーア派政党連合の統一イラク同盟がヌーリー・アル=マリキを首相に選出されて、イラクで初めての民主選挙による政権が発足した。2006年12月30日、サダム・フセインの死刑が執行された。
 ブッシュ子政権は、アフガン戦争及びイラク戦争を通じて国際テロを一応封じ込めた格好になっていた。政権末期には、イラクでは国情が落ち着き、米軍の被害はほぼなくなっていた。米国では2008年11月に大統領選挙が行われ、民主党のバラク・オバマが大統領になった。オバマ大統領は2010年よりイラクからの軍の撤退を進め、2011年末に撤退を終えた。
 この撤退の背景には、米国が経済的にも軍事的にも、中東に本格的に介入する力がなくなってきていることがある。オバマ大統領が「世界の警察官」を辞めると表明したことは、このことを象徴的に示している。だが、米軍のイラク撤退後、イラクでイラク人自身の手で民主化が進み、中東が安定するようになるかどうかについては、当時否定的な予想が多かった。
 例えば、ブッシュ子前大統領がイラク戦争を仕掛け、フセイン政権を崩壊させたことが、中東のバランスを崩してしまったのであり、一旦バランスが崩れると、これを安定させるのは容易でないという見方があった。そうした微妙な状況でオバマ大統領が撤兵を進めたのだが、米軍抜きのイラク軍には治安を維持する力がなく、混乱を生じるという見方があった。またイラクのマリキ首相は偏狭な指導者でシーア派以外を排除するため、民主的に国を統治する能力に欠け、スンニ派やフセイン信奉者の反発を買うという見方もあった。
 いずれにせよ、フセイン独裁政権を倒した米国には、その後、米国の指導で築いた政権を支え、イラクの民主化と安定化を実現する責務がある。だが、それはうまくいっていなかったようである。オバマ大統領は確かな見通しのないままにイラクからの軍の撤退を行ったのだろう。その結果が表面化してきたのが、今やカリフ制の「イスラム国」を称する過激派武装組織の動きである。

●今年に入ってからのイラク過激派の動きとシリア内戦の関係

 スンニ派の過激派武装組織「イスラム国」(IS)は、旧名のISIS当時、本年年明け早々にバグダッド西方の町ファルージャを再占拠した。ファルージャは、米軍がイラク進攻を開始した翌年の2004年春、大規模掃討作戦を行ったスンニ派の地域にある。その頃のファルージャは、イラクのアルカーイダの拠点だった。米軍による掃討作戦は成功せず、その後武装勢力のテロはイラク全土に広がった。そのファルージャが再びアルカーイダ系の勢力に制圧された。今度は、アルカーイダより過激な武装勢力が占拠したわけである。
 中東問題の専門家である元外務官僚・宮家邦彦氏は、2011年末に米軍がイラクから撤退した以上、「ファルージャ再占拠の日が来ることは予想されていた」といい、「十分な米軍の支援を受けることができないイラク軍にはファルージャを制圧する能力がないからだ」と見ている。「米軍撤退でイラクには“力の空白”が生じ、空白を埋める諸現象が始まっていたのだ」と述べている。
 こうしたイラクでの過激派武装勢力の活動は、隣国シリアの内戦から広がったものである。シリアではアサド政権と反アサド政権の内戦が続いている。昨年2013年8月末、米国政府は、アサド政権が化学兵器を使用したことに「強い確信がある」とし、少なくとも1429人が死亡したとする報告書を発表した。化学兵器による大規模攻撃は8月21日に首都ダマスカス郊外で起きたとされる。反体制派は政権側が攻撃したと非難、政権側は反体制派の仕業だと反論し、真相は解明されていない。化学兵器による大規模攻撃は、イラクのフセイン政権が1988年にクルド人反乱鎮圧のため行い数千人を殺害して以来だった。
 米英は、アサド政権に化学兵器を使わせない目的で軍司令部などを巡航ミサイルでたたく限定的介入を計画した。オバマ米大統領は2013年9月10日の演説で、シリアへの限定的な軍事行動と外交努力の双方を進める立場を訴えたが、議会と世論の支持は得られなかった。軍事介入には本来、国連安保理の武力行使容認決議が必要であり、シリアの後ろ盾ロシアとそれに同調する中国が決議採択に反対した。結局米国は、いったんは軍事攻撃の構えをみせたものの、消極的な姿勢になっていった。
 そこでロシアのプーチン大統領が、シリア内政問題に妥協案を示した。シリアが保有する化学兵器を国際的な管理下に置き、来年(2014年)半ばまでに完全廃棄するというもので、この枠組みにシリアを含む欧米諸国は賛同した。米国は、この提案に乗ることで、軍事介入をせず、外交による対応で済ませるという選択をした。
 ロシア問題の専門家・木村汎氏によると、これによってプーチン氏は2つの成果を収めた。成果の1つは、シリアへの米軍事介入を少なくとも当分回避したこと。これは何よりもロシア自身のためであった。近年、「カラー革命」や「アラブの春」にみられる民衆蜂起は、外部諸国から直接間接の支援を得て体制転換や政権崩壊を導いた。同様のことがロシアで起こりはしないかという危惧があったからである。成果の2つめは、プーチン氏は、シリアのアサド政権に化学兵器を放棄させる代わりに米国の武力行使を思いとどまらせるという、各国が飛びつくような提案をしたことで、国際舞台での重要なプレーヤーであるとのイメージ回復に成功したことである。わずか半年後、本年3月のクリミア併合でそのイメージは吹き飛んだが。
 オバマ大統領がシリア・アサド政権に対して軍事行動をせず、ロシアの提案に乗ったことは、国際的な反米勢力と連携している北朝鮮を勢いづかせたという見方もある。
 シリアの内戦は泥沼化しており、死者は10万人を超え、国外に避難した難民は200万に上ると言われる。シリアの反アサド政権側には、各国からイスラムのジハード(聖戦)義勇兵が終結し、軍事訓練と実践で戦闘力を高めている。なかでもISISはシリアでの戦闘で勢力を増大していった。そして、本国イラクで戦闘を拡大してきたのである。

 次回に続く。
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