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2013年11月06日17:43

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フィクションの中へ(22)  「大いなる西部」のたそがれ

 ウィリアム・ワイラー監督「大いなる西部」1958 をテレビでみた。名前は知っていたし、テーマ・ミュージックも聞き覚えがあったが見たのは初めてだった。ただし、主人公ジム・マッケイ(グレゴリーペッグ)が東部からテキサスの婚約者パット・テリルのところへ到着したところの途中からだったが。

 で、内容は西部劇の範疇にはいるのだと思うが、むしろ社会派ドラマの側面が強かった。
 パットは牧場主テリル少佐の娘で、少佐はもう一方の牧場主ヘネシー家と長年の対立関係(多分、英語でfeudという一族間の敵対)にあった。問題は、水場の利用権なのだが、所有者の学校教師ジュリー(ジーン・シモンズ)は、それをジムに売却した。

 テリル少佐は水場を力ずくでヘネシー家に使わせない。ヘネシーの当主はパットを誘拐する。ここで、一族を集めたテリルとヘネシーの対決となる。

 ジムは買い取った牧場にある水場を近くの牧場主誰にでも使わせる方針であった。しかし、婚約者のパットはヘネシー家に使わせるのに反対であり、また、パットを自分のものにしたい牧童(その一人の役がチャールトン・ヘストン)たちとも対決する気はないというジムがはがゆく、愛していないのか、それとも弱虫なのかと疑っている。
 つまり、パットは西部の荒くれ男たちの気性とともに育った女なのである。

 ということで、一対一の決闘や、両家の打ち合い、そして最後は両当主の決闘で幕となる西部劇である。もっとも、場所はテキサスで、原題はbig country なのだが。

 社会派と言ったのは、両牧場主の対立の原因が水争いだったことが明かされているからである。本来の西部劇ならヘネシー家が悪党ということになるのだが、ここでは、もはや根拠のなくなった憎しみに固執する時代遅れの老人とされてしまった。東部から来た男の目でみれば、ばかばかしい限りであり、それが、観客の目になっているのだと思う。

 監督はウィリアム・ワイラーであり、西部劇の監督ジョン・フォードではなかった。ジョン・フォードなら、善悪がはっきりしていて、当然、東部から来た主人公は善の味方をするのであったが。アメリカにおける西部劇のたそがれを告げるものに違いない。
 後は、マカロニ・ウェスタンへと続く。

 ところで、この映画の翌年、ワイラー監督の大作「ベン・ハー」で、その主役がチャールトン・ヘストンであった。

 
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