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2012年09月18日16:01

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ファンタジーの往還(8)  誰でも行ける別世界

 井辻朱美「魔法のほうき ファンタジーの癒し」廣済堂2003 は、場所と時間を視点としてファンタジー現象がどのように起きているかを論じたものである。
 著者は1955生で、ファンタジー作家、翻訳者、歌人で白百合女子大学教授とのこと。

 ファンタジーとは、周辺本、パスティーシュやグッズを併せてひとつの自立した別世界を提示するもので、「ハリー・ポッター」や「指輪物語」だけでなく、「ムーミン」、「クマのプーさん」、「大草原の小さい家」や「赤毛のアン」もそうで、さらには「ホームズ」もすでにファンタジーの域に達しているとのことである。つまりは、ファンタジーとは作家がまいた種を読者が育てて、ひとつの世界になったものを言うらしい。日本であれば、「イーハトーヴ」ということになる。
 最初に意識的にこの世界を作ったのは、「指輪物語」を準世界創造と定義したトールキンであった。ということはトールキンは神話の世界創造を意識していたことになる。「準」としたのは、聖書に対する遠慮に違いない。 

 多分、無意識だったのだろうが「アン」もまた世界を創造していた。アヴォンリー(キャベンディッシュ)に着いたアンは、さっそく周囲の景観に新しい名を与えてゆく。輝く湖水、恋人の小道、お化けの森、それに自分の名前も変えようとするが、これは養母のマリラに禁じられる。そもそもマリラは名前を付けること自体にいい顔をしなかった。それはそうなのだ。それは神エホバに託されたアダムの役割だし、古事記では、新しい地名や氏族名をあたえるのは神や支配者の特権なのである。
 マリラは多分無意識の恐れを感じて自主規制したのだろうし、われわれ普通の人間もそうだろう。しかし、空想上では、命名権は作家にある、ということで、モンゴメリーは変哲もないキャベンディッシュにアヴォンリーなどというアーサー王物語に出てきそうな名を与えたに違いない。

 空想の上で自分の居場所を作ること。これは現実逃避ではなく、一時退避の場所なのである。ここで癒されて現実に戻る。これはグリーンゲイブルス以前のアンのしていたことだった。以後においては、女の子のままごと遊びのように見えるのだが。

 「メアリー・ポピンズ」シリーズの中の「公園のメアリー・ポピンズ」はどちらが空想で、どちらが現実なのか、区別がつかなくなる状況を描いている。絵本の中の王子が、それを読んでいる子供の前に現れて「君のことを本で読んだよ」などと言う。それは逆だと抗議するのだが、残念、それを証明する手段がない。家庭教師のメアリー・ポピンズもこの時ばかりはどちらとも決めてくれないのである。荘子の胡蝶の夢・・・どっちだっていいじゃないか。あるいは、どちらも正しい。
 結局これは、作者リンドグレーンによるファンタジーの独立宣言に違いない。根も葉もない子供用の話と思うな、という警告であろう。それを徹底させれば、ヨースタイン・ゴルデル「ソフィーの世界」になる。ここでは、現実世界のソフィーよりも、空想の、もといイデア世界のソフィーが優越しているのである。

 つまり、ファンタジー作家は言う。現実にこだわるなと。そして、さらに言う。時間にこだわるなと。
 時間は過去から来て未来へ向かう。ミラボー橋は、川は流れ私は残ると歎く。時間をやり過ごしたように見えても、浦島太郎の場合のように一瞬で追いつかれてしまう。疲れを知らない子供のように時が僕らを追い越して行く・・・というのが現実だった。
 などと言うことはない、とファンタジー作家は言う。フィリッパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」やデブロー「時のかなたの恋人」など、タイプ・トリップもの。宮部みゆき「蒲生邸事件」もそうであった。
 むろん、時間を超越しているわけではない。むしろ時間に従っているのだ。しかし、ファンタジー世界でのタイムトリップを経験することによって、宿命としてではなく、自在に時間を楽しむことができるはずである。

 ファンタジーは宗教体験に似ている。しかし、真剣勝負としてではなく、遊びとしての体験なのである。遊びをせんとや生まれけむ・・・何か後ろめたい気を起こさせるが、そうではない。遊びがあってこそ自動車も動く。教習所で習う一番の驚きではなかったか。
 

 
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