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2012年08月28日18:19

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映像の向こう側(51)  アンはいつアンになったのか

 ケヴィン・サリヴァン監督「赤毛のアン 新たな始まり」2008 は、グリーン・ゲイブルスへ来る以前のアン(ハンナ・エンディコット=ダグラス)を、ギルバートも亡くなった後、またグリーン・ゲイブルスに戻ったアン(バーバラ・ハーシー)が回想する、という映画である。
 マシュウとマリラに引き取られる以前アンが何をしていたのかは、アンがマリラなどに語ったように、ほとんどを子守女として過ごし、最後に孤児院へ入れられ、そこからマシュウに引き取られている。そのアンの話をもとにして、バッジ・ウィルソン「こんにちはアン」新潮文庫2008 を執筆、これがモンゴメリの遺産継承者の公認になっている。つまり公認された前歴で、映画はこれをもとにしているのかと思っていたのだが、驚いたことに全く違っていた。

 だいたい、有名になった小説は、特に少年・少女小説だろうが、その後どうなったかという読者の要望にこたえて、著者の死後は別の著者が続編を執筆することがある。ヨハンナ・シュピリ「ハイジ」の場合、ペーターとの結婚編がある。バリ「ピーターパン」にも複数のその後の物語や映画がある。「アリス」にも別ヴァージョンがあった。
 「アン」の場合はモンゴメリ自身が続編を書いたので、その後については足りていたが、それ以前が残されていた。アンが駅に到着する時点でアンのキャラクターは完成されていたわけで、読者としてはそうなる経過が知りたくなる。「ハイジ」の場合、登場の時点ではまだ無邪気な幼女で、アルプスの村やフランクフルトのクララの家で人格が形成されていく。つまり、ゲーテ「ウィルヘルム・マイステル」にならった教養小説である。
 そこで、アンについてもその過程が知りたいと、断片的に語ったアンの身の上話をベースにして、補足肉付けをしたのがバッジ・ウィルソンの著書なのである。

 ところが映画はアンの身の上話を廃棄してしまってた。あれは、アンの空想の身の上話、本当のことはあまりにつらかったからというのだ。
 で、映画では、酔っぱらったアンの父が馬車を池に転落させ同乗していた母を死なせてしまったのである。そして父は行方不明となり、厳しい規則と罰則のある救貧院へ入れられる。そこで、監禁されている老人と親しくなるのだが、この老人に「心の友」(原作でのアンの愛用語)という言葉を教えられている。
 救貧院を老人が譲ってくれた鍵で脱出し、まちで両親の友人だったトマス医師の未亡人と子供たちが夜逃げするところに出会い、そのまま夫の母のトマス家に転がり込む。トマス家は製材所、紡績工場にリンゴ酒製造を経営して、アンは馬の世話やリンゴ摘みなどに使われ、そのうちトマスの奥様の信頼を得て、未亡人の子供たちの家庭教師になる。ほとんどアンより年上なのだが。しかし、労働争議が頻発し、おまけに許可なく材木を伐採していることが暴かれて経営は破たんする。その争議を指導し、実力行使をしているのがアンの父ウォルター・シャーリーなのである。

 そして、アンはつらいことになるたびにケイティに訴える。ケイティとは鏡に映った自分のことで、これは原作と同じである。

 ということで意外だったのは、トマス家の実家が金持だったこと、しかし、そこで使用人として使われていたことだった。原作では、子だくさんでアルコール依存症の労働者一家での子守女だったのだが。
 で、なぜ変えたのか? トマス家を金持ちにすることで時代背景としての労働争議を取り込んだこと。アンシリーズにはそもそも労働争議がなかった。ただ、この争議は経営者側と労働者側の複雑な動きで、どちらが正しいのかアンにも分からなかったようだが、私にも分からなかった。
 そして、父親を酔っぱらいとしたことで、かっては幸せだったという実際とは違う空想を持ち込み、流浪時代に耐えたことであろうか。しかし、父は死んでいない、ということをアンも知っていたわけで、しかも、旧友トマス医師の未亡人と再婚していたということで、複雑な背景を持たせることになった。
 多分、複雑すぎてアンとしては単純化した身の上話にしてしまった、ということでグリーン・ゲイブルスにつなげたのかもしれない。
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