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2011年02月22日05:21

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小説の中の謎(66)  論理の空転

 A.A.ミルン「クマのプーさん」1926 は、息子のクリストファー・ロビンに、いつも離さないぬいぐるみのクマの話をせがまれたことで、始まった物語であり、ショボーとうってかわって、童話らしい童話である。その意味での古典であろう。最初に読んだのが確か二十歳の頃、石井桃子の童話論に紹介されていたので読んだと思う。
 今、読み返してみて、その面白さは、何か行動するときに論理的であるのだが、内実が伴っていないのでおかしな失敗をする、というところにあるようだ。漫才でのぼけの論理に似たところがある。
 第1話は、プーさんがはちみつをとりたいのだが蜂の巣のある場所が高すぎる。そこで、クリストファー・ロビンの持っている風船をもらう。青と緑色と、どちらがよいか。青なら蜂は空と間違える。緑なら木と間違えてぶら下がっているプーに気づかないであろう。しかし、プーは黒い。だったら青だ。プーは空の雲のようになる。そこで、ふわふわと浮きあがって、蜂の巣に接近するのだが、蜂がブンブン飛び回って疑っているように見える。そこで、クリストファー・ロビンに雨傘をさして、黒雲が出ている。雨が降ってきた・・・などと言ってもらう。結局、この蜂は蜜蜂ではないことが分かり、降りようとするが降りられず、鉄砲で風船を打ってもらって、地上に落下するという展開である。
 蜂をだますのに青色がいいか緑がいいか、という検討のところで、プーの論理にはまりこむ。このあたりが、漫才のぼけとつっこみのかけあいに似ていて、物語の中に入ってしまうのである。
 また、クリストファー・ロビンがゾゾを見たと言ったことで、プーとコブタが、自分たちも見たような気になり、ならば捕まえよう。落とし穴を作ればよい、そこに、蜂蜜のつぼを置いておけば・・・ということにするのだが、プーは蜂蜜が惜しくなり朝早く落とし穴に出かけ壺に首を突っ込む。同じく、コブタもやってきて頭が壺のプーを見て、ゾゾが出た、助けてくれと逃げ出す。壺が抜けなくなったプーも助けてくれとコブタを追いかける。
 このベースには同調しやすい子供の心理があるのだが、しかし、大人でも同じようなことがありそうである。
 ショボーはフランス人でミルンはイギリス人であるが、同時代の人であり、「年をとったワニの話」が1923年、「プー」が1926年に出版されている。それで、まったく傾向が違うのだから不思議な気がする。ショボーにはほら話の要素もあり、ミルンはイギリス風の論理がベースになっているのか。それとも、植民地アルジェリアに住んだり戦地に行ったりして、不条理を多く見たことがショボーの特徴をつくったのだろうか。
 ところで、プーとはなんだろう。もとは、動物園の人気の熊ウィニーがモデルだそうだが、ウィニーをプーと言っていたのだろうか。私の二男が幼児の時、機関車トーマスが大人気だった。で、二男は、トーマスをプーと言っていたのである。
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