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2022年06月16日09:13

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日本の心128〜陸軍にあって和平を希求:宇垣一成

 大塚寛一先生は、「明けゆく世界運動」の創始者にして総裁です。大塚総裁は、戦前、『大日本精神』と題する建白書を、毎回千余通、時の指導層に送付しました。大塚総裁の建言に耳を傾け、国政に努力した指導層の一人に、陸軍大将・宇垣一成がいます。

●陸軍を抑える実力者との期待

 宇垣は、陸軍軍人には珍しく高い識見をもち、つねに国家の進路を見つづけた人物でした。戦前、彼は独断専横の陸軍を抑え、シナ事変を解決し、対米戦争を回避できる実力者として期待を集めました。幾度も首班候補に挙げられたほどでした。
 宇垣は大正期に長く陸軍大臣を務め、陸軍の四個師団削減と軍備近代化を成し遂げました。昭和5年(1930)1月、ロンドン軍縮会議が開かれた時には、閣僚の一人として、海軍軍縮条約の批准を促進しました。しかし、時の首相・浜口雄幸は襲撃され、重傷。軍部は統帥権干犯を唱えて政府に反発し、以来、わが国にテロリズムが横行するようになりました。中でも陸軍の一部が反乱を起こした2・26事件は、全国を震撼させました。事件後、陸軍では統制派が主導権を握りました。そして政治の主眼は、この陸軍の抑制か陸軍との協調に置かれました。ここにおいて陸軍を抑えられる者として期待をされた人物こそ、宇垣なのでした。
 昭和12年1月、昭和天皇より、宇垣に首相指名の大命が下されました。宇垣は、中国との紛争の早期解決に情熱を持っていました。ところが、陸軍では石原莞爾ら反宇垣派が、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出しません。そのため、宇垣は組閣ができず、大命拝辞に追い込まれました。期待の宇垣内閣は流産に終わったのです。
 この時、宇垣の側近・林弥三吉(やさきち)中将が、新聞記者に談話を発表しました。林は、宇垣の考えを伝えたわけです。「軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります」「自分の大命拝辞後の軍の成り行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいま、ファッショか日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます」と。ところが、林談話は、同じ陸軍によって新聞への掲載が禁止されたのです。
 宇垣内閣流産に、無所属の代議士・田川大吉郎は、衆議院議長・富田幸次郎を訪問しました。田川は、“憲政の神様”尾崎行雄の代理として、次のように伝えました。「現下の時局に対し、宸襟(しんきん=天皇の心)を悩まし奉ることはまことに恐懼(きょうく)にたえない。今日は憲政の危機であり、さいわい議会も開かれていることだから、議会において憲政並びに時局に対する国民の意思を発表することにしたい。これが議会当然の義務と思うから、民政・政友両党に交渉していただきたい」と。しかし、議会も政党も、この重要な危機に、積極的に動こうとはしませんでした。テロを恐れていたからです。
 宇垣内閣への妨害・不成立は、憲政の大きな曲がり角でした。これ以後、陸軍を中心とするファッショ的な運動が日本を支配していきます。
 もし宇垣内閣が成立していたら、日本の進路は変わっていたことでしょう。宇垣は命がけで陸軍を正常に戻し、中国問題を解決しようと決意していたからです。しかし、それは成りませんでした。そして、この年7月8日、廬溝橋事件が勃発。わが国は、コミンテルンの戦略による中国共産党の謀略にはまり、紛争は長期化しました。昭和13年1月に近衛文麿首相は、「爾後国民政府を対手とせず」という第1次近衛声明を出しました。戦争をしている相手国の正統政府を相手としなければ、戦争を終らせることは不可能です。こうして日本は戦争目的不明の泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。 
 宇垣は、この事態をなんとかしようと考えていました。彼にチャンスが訪れました。昭和13年5月、近衛内閣の外務大臣に就任したのです。宇垣は支那事変の解決に情熱を燃やし、和平工作を行いました。そして、蒋介石の国民政府の行政院長・孔祥熙を相手とする会談を進める方針を決めました。ところが、9月に入り、近衛が新聞記者会見で「蒋介石を相手とせずという帝国政府の方針は終始一貫不変である」と声明しました。これは宇垣の和平交渉を抹殺するものでした。また、軍部と外務省の一部は和平交渉に反対し、支那事変処理の仕事を外務省から別に移すために、興亜院を設立することを提案。近衛は、これに賛成しました。またも、宇垣への裏切りでした。憤った宇垣は、外相を辞任。「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ない」と宇垣は語りました。
 宇垣の和平交渉は頓挫し、わが国は支那事変の解決のチャンスを失い、大陸で泥沼の消耗戦に陥っていきました。誠に残念なことでした。以後、反宇垣派が主導する陸軍は暴走を続け、わが国を危険な方向へ誤導したのでした。

●反東条派が擁立工作

 「宇垣一成を首相に」という宇垣待望論が、戦前、繰り返し現れました。宇垣擁立をめざして行動した者の一人に、戦後首相となった外務官僚・吉田茂がおり、また一人に、当代随一の雄弁を誇る代議士・中野正剛がいました。
 吉田茂はいわゆる英米派の外交官でした。昭和5年(1930)のロンドン軍縮会議のとき、吉田は外務次官として、陸軍大臣の宇垣とともに軍縮を推進しました。吉田は以来、宇垣を深く信頼していました。
 吉田は、昭和14年3月に駐英大使を辞めて帰国すると、独伊と図って英米を敵視する時勢を憂え、日米開戦回避に奔走し、宇垣擁立を工作しました。東条英機の登場によって、大東亜戦争が開始された後も、吉田は擁立工作を止めませんでした。
「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、昭和14年9月に『大日本精神』と題する建白書を送付し始めました。建白書は、毎回千余通、時の指導層に送付されました。その中に、宇垣が含まれていたことは言うまでもありません。宇垣は大塚総裁の建言に耳を傾けました。側近の林中将もまた総裁に意見を求めました。
 昭和17年9月、吉田茂は宇垣の意見書を預かり、元首相・近衛文麿に渡しました。宇垣の意見書は、欧州と中国に実情視察の名目で有力な使節を派遣して、戦争終結を図るものでした。欧州には近衛を先頭に吉田ほかで中立国スイスに乗り込み、そこで各国各界の士と広く接触を図り、和平への道を探る。中国へは蒋介石の恩人たる頭山満を派遣する。「行け」と言われれば宇垣もその随員に加わる、というものでした。また、敗色が濃厚になった20年1月には、吉田は近衛を動かして、天皇に戦争終決の上奏文を提出します。しかし、吉田の動きは憲兵隊の知るところとなり、この年の4月、遂に吉田は逮捕されました。終戦まであと4ヶ月という時期でした。
 吉田は宇垣にあてて約30通の書状を出していますが、その内容はいずれも国を思う熱情に満ちており、宇垣への傾倒を示しています。吉田は和平を希求し、日米開戦回避、早期終戦、日中関係正常化のために、宇垣宰相を期待したのです。
 宇垣擁立のために行動したもう一人の人物が、中野正剛です。中野はジャーナリストとして活躍した後、34歳で代議士になりました。中野は学生時代に玄洋社の頭山満と出会い、その感化を受けました。また、三宅雪嶺の『日本及び日本人」に学生時代から寄稿し、雪嶺の娘と結婚しました。仲人は頭山でした。
 中野はアジアの民族自決を目指す東方会を興しますが、一時、独伊のファッショ思想の影響を受け、三国同盟を推進し、米英決戦を唱導していました。しかし、開戦後は、自分の意見を改めました。昭和17年4月の翼賛選挙では、中野の東方会は、東条のファッショ的な候補者推薦制度を批判し、非推薦で選挙戦に臨み、激しく反対意見を投げつけました。これに対し、東条が言論統制を強化し、中野らを圧迫するようになると、「東条のやり方は間違っとる。これでは、国を誤った方向へ導く」「たとえ結果の上で敗れても、軍事独裁と闘う議会人がいたことを、歴史の上にとどめたいのだ」――そう決意して中野は、東条に挑戦しました。ヒトラーやムソリーニと決別した中野は、日本精神を取り戻し、楠木正成や西郷隆盛を尊敬する日本人となっていたのです。
 中野は昭和18年元日、新聞紙上に『戦時宰相論』を発表し、古今東西の宰相を例に引いて間接的に東条首相を批判しました。これは発禁処分にされました。当時、元首相・岡田啓介は、重臣会議によって東条を退陣に追い込もうと考えていました。これを受けて中野が構想を練り、行動を起こしました。中野の方針は、重臣を説いて東条を倒し、その後に宇垣政権を作るというものでした。彼らの根回しにより、同年18年8月、宇垣・近衛会談が行われ、宇垣と近衛は、東条退陣と宇垣内閣実現を約束し合いました。しかし、重臣らはいざとなると東条に退陣を迫ることができません。そこで中野は、さらなる工作を進めました。東条はその動きを察知。中野は逮捕され、憲兵の取り調べを受けました。釈放はされましたが、中野は、「皇族・重臣に迷惑を及ぼしてはならない」「ここまで闘って、刀折れ矢尽きた」と感じました。そして、10月27日、自決する道を選びました。
 その後、岡田らの努力は、ようやく功を奏し、昭和19年7月に東条内閣を総辞職に追い込みました。代わった小磯国昭首相は宇垣に入閣を求めました。しかし、宇垣はこれを断りました。「今さら尻ぬぐいの担当者でもあるまい」と考えたのです。中国との紛争の解決を願う宇垣は、自由な立場で問題解決に助力したいと言いました。そして、9月から1ヶ月間、中国を視察し、その結果を小磯首相らに報告しました。宇垣は、全権使節を派遣して重慶側と交渉し、日本軍は揚子江以北に撤収するという提案をしました。しかし、採用はされませんでした。日本は中国問題を解決できないまま、対米戦争を続けていったのです。
 戦後、東京裁判が行われ、戦勝国によってわが国の多くの指導者が裁かれました。昭和23年10月、判決を前に裁判が休止されていた時、首席検事ジョセフ・キーナンは、宇垣をティー・パーティに招きました。他に岡田啓介・米内光政・若槻礼次郎の3名が呼ばれ、キーナンは「日本における真の平和愛好者はあなた方4人である」と述べました。
 宇垣は、昭和28年4月の参議院通常選挙に全国区で立候補し、51万票を超える驚異的な大量得票を得て、最高点で当選しました。国民の間にも宇垣への期待があったのです。しかし、宇垣は結局、政治活動の場のないまま、31年4月、87歳で亡くなりました。
 陸軍にあって常に和平を希求した宇垣一成。戦前、彼がその和平政策を実行できたならば、わが国の進路は大きく変わっていたかも知れません。

参考資料
・渡邊行男著『宇垣一成』(中公新書)

 次回に続く。

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