ファンタジーの中へ（152）　20世紀小説論　１．最初の３人

　１枚目　アンドレ・ジッド1869-1951　　　南方美術店ブログより
　２枚目　ジェイムズ・ジョイス1882-1941　ペンギン文庫の表紙絵　青年時代のジョイス
　３枚目　夏目漱石1867-1916　漱石山房大正３年　　　　　写真はネットから

　提唱した評論家の名は忘れたが、最初の20世紀小説が、アンドレ・ジッド「贋金つくり」1925　とジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」1922　だということだった。さらに江藤淳だと思うが、漱石「明暗」1916　も20世紀小説だと主張していた。
　私が中学高校と読んでいたのは、もっぱら18･19世紀の欧米の小説だった。学校の図書館の世界文学全集や岩波文庫がそうだったからである。

　１．アンドレ・ジッド「贋金つくり」1925　
　「贋金つくり」という題名の小説を書くための創作日記のような形式をとっているが、他の人物の視点も交えている。で、贋金というのは、他人のアイデアも盗んだりしながら世間受けを狙って書いた小説のこと。贋金をつくるのも才能で、登場する作家は才人なので、語り手（作者ジッドがモデル）も対抗するのに苦労している。
　そんなことなら贋金を作った方がましだと、実行して見せた過激派の詩人も登場するが、全体としては、フランスの当時の詩人や小説家の交流を、特に高校生ぐらいの若い詩人志望者との関係を描いている。つまり文壇を動態的に描いたわけである。
（★海風注：昔、赤瀬川源平による千円札模造事件があったが、ジッドの小説に影響されたのかと持っていた。無論小説では「本物の」偽札製造だが、赤瀬川のは１枚の作品だったが、やはり模造はいかんというので訴追され事件になった。）

　実在人物としてはアルフレッド・ジャリ（不条理劇のような「ユビュ王）の作者）が登場する。若く亡くなったので、執筆当時には故人なのだが、奇矯ではあるが作家としては肯定的に描かれていた。
　ジッド自身の自身の作家としての体験・経験を踏まえた作家小説である。

　ウィキによれが、そもそも、「狭き門」自体が、主人公はジッドがモデルで、ヒロイン・アリサのモデルは従妹である妻マドレーヌとのこと。マドレーヌとは亡くなるまで添い遂げただ、性関係はなく、同性愛関係とか、女性の愛人との間に子供を産んだとのこと。
　ジッドには同性愛をテーマにした小説もあるが、「贋金つくり」でも作家と少年の作家志望者の間でも、描かれてはいないが、そんな雰囲気はあった。

　２．ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」1922
　ホメロス「オデュッセイア」はトロイ戦争勝利の後、故郷のイタケに凱旋しようとしたオデュツセウス（英名ユリシーズ）が漂流し、様々な困難の末に、探しに来た息子と再会して、故郷に戻って、未亡人になったと思い込んだ求婚者たちを殺して、妻と再会するという物語である。
　ジョイスは、この設定を当時のダブリンに置き換えて、主人公を演劇関係者、その妻を浮気な女優とした。息子に当たるのがジョイス自身をモデルにしたスチィーヴン・ディーダラスで、この二人のそれぞれのダブリン散策が「ユリシ−ズ」の内容である。
　ヨーロッパを基礎づけた普遍的なギリシャ文明にあこがれたディーダラス（ギリシャ神話の天才発明家から取った名前）が、出会ったのが、妻の浮気から逃げ出す気弱な中年男だったことになる。

　「若き芸術家の肖像」1916　は主として、ジョイスの大学時代の自伝であり、フランスへの留学に旅立つところで終わる。ジョイスはアイルランド民族主義や古代文化の復興運動に嫌悪していた。本書から自身をディーダラス（ダイダロス）と名付けている。
　「ダブリン市民」1914　は、いろいろなダブリン市民を通じて、ダブリン社会の停滞と精神の麻痺を描いている。
　ということで、ジョイスのダブリン嫌いは年季が入っているわけだが、ギリシャの英雄ユリシーズをダブリンの寝取られ中年男と読み替えたのは、古典ギリシャをダブリンと同列に見ることができるようになったということだろう。ユリシーズの冒険として描かれた実態は、故郷に帰りたくないユリシーズの心の葛藤に違いない。で、精神分析的に言えば、妻の求婚者を殺したというのは、妻の浮気の疑いの心を克服したことだろう。

　関連して、伊藤整「若い詩人の肖像」1956　は、「若き芸術家の肖像」と題名が似てしまったわけだが、小樽高等商業の学生時代に詩を書き始めた頃から、東京商科大学（一橋大学）時代の詩人仲間との交友を描いた自伝である。その面で見れば、ジョイスやジッドの小説に似ている。

　３．夏目漱石「明暗」1916　　
　江藤淳によって、世界レベルの20世紀小説だと称賛されたわけだが、モデルは漱石夫婦と言って良いだろう。そして純粋に自伝小説である「道草」1915　を踏まえたフィクションだと見るべきだろう。
　もっとも読んで楽しくなる小説とは言えないが、それまでの親友への罪の意識から夫の方が陰鬱になってしまった夫婦小説とは一線を画している。特に「こころ」は、夫の一方的な一人相撲だった。
　対して「明暗」は現実の鏡子夫人との関係に近いわけで、題名「明暗」は「禍福は糾える縄の如き」状態をあらわしているのだと思う。
　漱石は連載途中で亡くなったが、弟子たちは「則天去私」の境地に達していたと主張した。「明暗」がそれまでの小説と印象が違ったからだと思うが、それまでが人間関係に理想を求めすぎていただけで、自身を見つめ直した「道草」によって正常に戻っただけだと思う。
　むろん、江藤淳も「則天去私」説を否定したことで評判になっていた。それに、「則天去私」では漱石の学んだ自己主張のあるヨーロッパ流の小説にならないだろう。まして、20世紀型小説になるはずがない。

　４．私小説および19世紀小説との関係
　以上、最初の20世紀小説と評価された３作の共通点は、作家が別世界を作っているのではなく、小説家としての自身を含めた人間関係・社会関係を提示しようとしたものである。その点、私小説と似ているのだが、田山花袋「蒲団」にみるように、自身ばかりみつめて自虐的になって、他者と自身を等身大に描けていない。漱石で言えば「こころ」に近いと思う。

　それまでの小説との違いであるが、モームの選んだ十大小説で見ると、
　「高慢と偏見」1813、「赤と黒」1830、「嵐が丘」1847、「白鯨」1851、「カラマーゾフの兄弟」1879　などは、主人公の個性が劇的で・印象的である。特に、「嵐が丘」のヒースクリフと「白鯨」エイハブ船長の情け容赦のない行動には圧倒される。関わりたくない人物の筆頭だろう。作家は彼らの新しい個性に注目したに違いない。
　他方、ディケンズ「オリヴァー・ツィストOliver・Twist」1838　は劣悪な環境に左右されない心を持つ少年を描いている。twistはねじれるという意味だから、普通ならねじれた人間になるとの含意があるのだろう。「リトル・ドリット」1855-57では、債務者監獄の極貧状態にあっても、眠っていた遺産が発見されて富豪の生活へと変わっても、ドリットの心が変わることはない。
　バーネット「小公女」1905　は「リトル・ドリット」の大きな影響を受けているはずで、あるべき人物像の典型を描いたのである。

　★海風：まとめ
　夏目漱石「明暗」の主人公夫婦は、オースティン「高慢と偏見」の関係に似ている。特に、漱石夫婦の場合は、当時はほとんどそうだったろうが見合いなので、それなりに性格が分かったうえでの結婚ではない。その二人が、心理的な行き違いを乗り越えて理解し、許しあう関係を作っていく過程が描かれている。
　19世紀小説を代表する「高慢と偏見」との違いは、「明暗」が作者夫婦を背景に持っていることが分かるように書かれているからである。その点、初期の「坊ちゃん」、「吾輩は猫である」、「草枕」と同じだが、「明暗」の場合は内面の交渉が描かれている点に進歩があった。
　さらに、漱石の主人公は「高等遊民」だとされているが、その原因は作家という遊民の自分自身が主役づくりの出発点になっているからだと思われる。
　その意味で、社会に現れた新しいタイプの人物を中心として物語を組み立てる19世紀タイプとは最初から違っていた。ただし、恋愛結婚を描いても、友人と親しい女性を奪って、しかもそこに罪の意識を感じて、となると暗くならざるを得ない。多分、漱石は幸せな恋愛関係だけに焦点を当てることができなかったのだろう。

　むろん、20世紀に書かれた小説でも、新しいタイプの人物像やそれまでにない過酷な環境に焦点を当てた物語も多い。実際、18世紀の小説が今でも模範としての「古典」になっているのではと思われる。

　なお、漱石が自分の「猫」とは違うとした、ホフマン「雄猫ムルの人生観」1819-21であるが、主人公のクライスラーは音楽家ではあるが（作者のホフマンは多彩な人で裁判官を正業として、ファンタジー作家、作曲家、指揮者、音楽評論家だった）、クライスラーの恋愛関係の悩みと、飼い主を冷静に観察する飼い猫の視点が交錯するように描かれている。
　ついでに言えば、ホフマンの恋愛とは、すでに結婚しているのに、少女に恋をして母親から出入り禁止を申し渡されたというもので、「アリス」の作者と似た不可能な恋の悩みであった。ホフマンのファンタジー「黄金の壺」では成就するようになっている。

　要約すると、20世紀に出現した新しいタイプの小説とは、作家は自由自在に選んだテーマを書いているのではなく、自身の育ちや人間関係に限界づけられていることを明示しながら書いた物語だということである。