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2022年01月18日08:50

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日本の心53〜剣の道から真理の道へ:宮本武蔵2

 『五輪書』は、必ず勝つために、心身を鍛錬し、数々の死闘を生き抜いてきた武芸家の書です。
 本書は、地・水・火・風・空の5巻で成っています。「地の巻」では、兵法の道の概要、二天一流の見立て、自分の流儀を二刀と名づけた理由、兵法を治める際の心がけなどを説きます。「水の巻」では、一対一の立ち合いの心得を述べます。身なり、目のつけ方、太刀の持ち方、足づかい等を説明します。構えあって構えなし、拍打ち、あたり、受けなど、自分の流儀の奥義を独特の用語で列記しています。「火の巻」は、多数の敵を相手にする場合を中心に述べます。先を知ること、「景気」というその場の気の流れのようなものを感知すること、太刀の用法、敵状を知ることなどを記します。「風の巻」では、他流剣法の批判と自身の兵法の正当性を述べます。太刀の大小や数や型などにとらわれるよりも、臨機応変で自然な対応をすべきことを主張します。そして全巻の結びとなる「空の巻」では、こうしたすべての技術・経験を費やして、兵法の道を究め尽くした果てに、武蔵が到達した常人には窺(うかが)い知れないほど深い、精神の境地が開示されます。
 その境地への手がかりとして、心のあり方について述べた部分が、「水の巻」にもありますので、そこから見てみましょう。「兵法心持の事」です。原文から引きます。「兵法の道において心の持様は『常の心』にかはる事なかれ、常にも兵法の時にも少しもかはらずして心を広く直にし、きつくひっぱらず少もたるまず、心のかたよらぬやう心を直中に置て心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし、静なるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず体は心につれず、心に用心して身には用心をせず、心の足らぬことなくして心を少しも余らせず……」。
 すなわち、「兵法の道においては、心の持ち方は『平常心』と変わってはならない。平常も、戦いのときも、少しも変わることなく、心を広く素直にし、緊張しすぎることも少しもたるむこともなく、心が偏らないように真中に置いて、心を静かに揺り動かしながら、その動きの一瞬一瞬には心が留まらないように、よくよく注意しなければならない。動作が静かな時にも、心を静止させず、動作がいかに速い時にも、心は少しも速くなく平静に保ち、心が体にとらわれることなく、体が心に引きずられることなく、心に注意して体には注意しないようにし、心は不足のないようにし、また少しも過剰ではないようにして……」。
 平常心と、心身の自在なバランスの大切さが、深遠で微妙な表現で書き記されています。何事でも、完全にコツを身につけ、自分のものにした技術は、どんなに難しい技でも、なんのとらわれもなく、自然にできてしまうものです。武蔵は、そういう心の状態が、武芸の道でも大切だと言っているのでしょう。ちょっとした隙が死を招く、真剣勝負の道であるだけに、言い様のない凄みがあります。
 次に、今、引用した部分を踏まえて、「空の巻」の枢要な部分を挙げてみます。
 「武士は兵法の道を慥かに覚え、其外武芸を能く覚え武士の行ふ道にも暗からず、心の迷ふ所なく、朝々時時に怠らず、心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨き、少しも曇り無く迷ひの空の晴たる所是れ実の空と知るべきなり、実の道を知らざる間は仏法によらず世法によらず、己れゝゝは慥か成る道と思ひ善き事と思へ共、心の直道よりして世の大がねに合せて見る時は其身其身の心贔屓、其目ゝゝのひずみによる、実の道には背く物なり、其心を知て直に成る所を本とし、実の心を道として兵法を広く行ひ、正敷明に大き成る所を思ひ取て、空を道とし道を空と見る所也」。
 すなわち、「武士は兵法の道を確かに覚え、その他の武芸をよく覚え、武士の行う道にも暗くなく、心に迷うところがなく、日々怠らずに鍛錬し、心・意の二つの心を磨き、観・見の二つの目を磨き、少しも曇りがなく、迷いが晴れている心の状態こそ、真実の空と思うべきである。真の道を知らずにいるのに、仏法によらず、世間の法によらず、自分で正しい道と思い、善いことだと思い込んでいても、本当の道から考え、宇宙の大きな尺度に合わせてみると、自分を贔屓目(ひきめ)に見ていたり、自分の目が歪んでいたりし、正しい道から外れているのである。この道理をよくわきまえて、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法の道を広く行い、正しく、明らかに、物事を大きくとらえて、空を道とし、道を空と見ることである」。
 最後は、次の一文で終ります。「空有善無悪 智者有也 理者有也 道者有也 心者空也」。すなわち、「空には、善があり悪はない。智がある。理がある。道がある。心の根本は空である」
 こうした深遠な文言によって、宮本武蔵は単なる無敵の剣豪ではなく、剣を通じて、もっと深い境地へと進んだ達人であることが、察せられるのです。
 武蔵は、長年命がけの決闘を重ねたことによって、常人の遠く及ばないほど高く自由な境地に到達したのでしょう。晩年の武蔵は剣以外に、書・画・彫刻・工芸等の道にも通じ、「ニ天」と号して、優れた作品を多く遺しています。特にその水墨画は高く評価されています。京都の東寺勧智院に武蔵の作と推定される襖絵(ふすまえ)が伝わっているほか、代表作に「枯木鳴鵙図」「鵜図」などが挙げられます。
 どうして、剣を書筆や絵筆に持ち替えた武蔵は、全く別の分野でこのような創作をなし得たのでしょうか。それは、ちょうど登山でも山の頂点を極めれば、どの方向の道にも下って行けるように、武蔵は剣の道を極めたことによって、それ以外の道にも遊び出ることができるようになったのでしょう。換言すれば、一つの道を極めたことによって、武蔵は、万事に通じる真理の道に分け入っていったことが、うかがわれるのです。
武蔵は「兵法の利に任せて、諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし」「その道にあらざるといふも、道を広く知れば、物毎に出あふ事也」と書いています。
 書・画・彫刻・工芸等の道に遊んだ武蔵は、改めて剣の奥義に向います。独り洞窟にこもる武蔵は、剣の道の極意を書に認(したた)めました。それが、『五輪書』だったのでした。本書を完成するや、わずか数日後、武蔵は波乱万丈の生涯を閉じました。享年62才。最後の5年間を過ごした熊本の千葉城にて。正保2年(1645)5月19日のことでした。
 宮本武蔵を、一躍有名にしたのは、吉川英治の名作『宮本武蔵』です。総計1千万部以上が出版されており、明治以来、日本の小説の中で、この作品ほどよく読まれたものはないといわれます。夏目漱石や司馬遼太郎の作品に優るとも劣らない国民文学であり、日本国民の「教養の書」また「人生の書」として愛読されているのです。数年前には、英訳版『Musashi』がヒットし、海外にも多くの読者を得ています。映画やテレビドラマもたびたび製作されており、内田吐夢監督、中村錦之助主演の東映映画「宮本武蔵」は映画史上に輝く不朽の傑作です。
 そのように、武蔵という人物が、今日なお多くの人の共感を呼ぶのは、なぜでしょうか。「道を求める生き方」は、日本人の生き方の特徴とも言えます。宮本武蔵という一個の求道者が歩んだ道に、私たちは共感し、人として生きる「道」の奥深さを感じずにはいられないのです。

参考資料
・宮本武蔵原著『五輪書 武蔵ニ天一流の極意』(教育社新書)
・吉川英治著『宮本武蔵』(講談社文庫)

 次回に続く。

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