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2022年01月08日10:23

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日本の心48〜家臣こそわが宝:徳川家康1

 徳川家康は戦乱が続く天文10年(1542)、三河の国は松平家に誕生しました。家康の祖父そして父も家臣に暗殺されました。母は政略で離婚し他家に嫁いでいきました。家康自身も幼くして織田信秀、次いで今川義元の人質となりました。こうして家康の生涯は、艱難辛苦(かんなんしんく)の連続でした。
 しかし、豊臣秀吉亡き後、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。これは応仁の乱以来の130年の戦乱の世に終止符を打ち、以後260年におよぶ太平の世を開く快挙でした。この偉業は古今東西に比類がありません。
 家康を描いたもので最も有名なのは、山岡荘八の長編小説『徳川家康』です。山岡の家康像の核心は、「元和偃武(げんなえんぶ)」にあります。元和元年の大阪夏の陣を最後に戦国時代は終わり、日本国中から合戦がなくなりました。家康の生涯を綾なす権謀術数や数々の合戦は、「元和」(平和が到来すること)「偃武」(武器を蔵にしまうこと)を目的に展開されたというのが、山岡氏の描いた家康像でした。
 誰かが天下を統一しなければならない。そういう時代に武将として生を受けた家康は、織田信長・豊臣秀吉が切り開いた道を歩み、忍耐強く日本の平定を成し遂げました。戦争を終わらせるために合戦を行い、平和の実現のために策略を用いる、これは一見矛盾した行いですが、戦国の世を治めたのは、こうした現実的な努力でした。
 家康の語録として、多くの人に知られるのが、次の言葉です。
 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝事ばかり知って負けることを知らざれば、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。人はただ身の程を知れ。草の葉の露も重きは落つるものかな」(『東照宮御遺訓』)
 これは家康が日々口にしていたことを書き記したものの一節です。戦乱を治め太平の世を開くことを生涯の使命とし、我慢と忍耐、自戒と謙虚を自分に言い聞かせて、粘り強く努力した人が、家康だったのでしょう。 
 しかし、家康の偉業は彼一人でできたのではありません。家康を支えていたのは、家臣たちでした。家康はそのことを良く自覚し、家臣を宝として大事にしました。
 『東照宮御實紀 附録巻七』に、次のような逸話が伝えられます。
 あるとき関白・秀吉が、家康をはじめ毛利・宇喜多等の諸大名を集めた時のことです。秀吉は自分が持っている宝物を自慢して、虚堂の墨蹟、栗田口の太刀などをはじめ、いろいろと数え上げました。そして、秀吉は「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と家康に尋ねました。
 すると家康は「御存知のように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、書・画・調度など何も珍しいものは持っておりません。しかしながら、それがしのためには、水の中、火の中へも飛び入り、命を惜しまない侍を五百騎ほど持っております。これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」と答えました。
 秀吉は少し恥じらう様子で、「そのような宝は自分も欲しいものだ」と言ったという話です。
 日本の武士道には、君臣一体といって、主君と家臣が親子のような情で結ばれ、互いに信頼し一体となって、家を守り立てていくという美風がありました。世界史に輝く家康の偉業は、こうした日本精神の発露であったと言えるでしょう。

参考資料
・山岡荘八著『徳川家康』(講談社文庫)

 次回に続く。

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