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2021年12月17日10:28

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日本の心38〜父・義満の過ちを正した足利義持

 南北朝が合併したからといって、朝廷に権力が復活したのではありません。威信は三代将軍の足利義満にありました。
 この義満は、自分の子を天皇とし、自分は太上天皇(だいじょうてんのう=上皇)になろうという望みを抱いていました。これは臣下の身でありながら、不遜の極みです。一体、その顛末(てんまつ)はどういうものだったでしょうか。
 わが国では、皇位を狙ったり、極度の不敬を行った者の末路は、よくありません。蘇我入鹿は大化の改新で討たれ、道鏡は野望を見抜かれて左遷されました。その点、藤原氏は、権勢の絶頂にあった道長も、自分や自分の息子を皇位に即(つ)けようとはしませんでした。自分の娘を天皇の后妃にして、その孫を即位させること、つまり、自分は天皇の外祖父になることを上限とし、それ以上は望みませんでした。そこには、わが国で守るべき人倫が自覚されていました。ところが、義満は、越えてはならない一線を越えてしまいました。節度がなくなったのです。
 義満は、自分の妻を天皇の母としました。どういうことかというと、後小松天皇の生母が命の危ない状態になったとき、自分の妻・日野康子を「准母(じゅんぼ)」といって、天皇の母「国母」の代わりにしたのです。これによって、義満は、天皇の母の夫、つまり天皇の父ということになりました。これは、太上天皇と同等の立場になります。
 そういう立場になったというだけではありません。義満自身、自分を天皇と同等の立場にあると、考えていたのです。たとえば、金閣寺のある北山の別荘に、本来、皇居にしかない紫宸殿(ししんでん)という名前の建物を作っています。また、服装にも、天皇だけに使用が限られている紋をつけています。太上天皇になったも同然の振る舞いです。
 さらに一歩進んで、義満は、自分の息子を、天皇にしようとしたのです。義満は、息子の義嗣を天皇の養子にしました。天皇の養子であれば、後小松天皇の後に皇位に就いてもおかしくないわけです。もしそうなったら、わが国の国柄を揺るがす事態となります。
 ところが、ここに不思議なことが起こりました。応永15年(1408)4月25日、義嗣は、天皇の実子である親王と同じ儀式によって、元服しました。すると、その翌々日、義満は急に咳が出て発病し、10日もたたずに、5月6日には亡くなりました。自分の息子が天皇の養子となり、天皇となるかもしれないという、栄華の極点に近づいたところで、義満は急病にかかり、あっけなく死亡したのです。わが国で守るべき節度を超えたがための最後と言えましょう。
 さて、足利将軍家は、義満が不遜・不敬を行ったにもかかわらず、その後もなお12代続きました。それは、義満の死後、4代将軍となった義持が、賢明だったからです。義持にとっては、天皇の養子となった義嗣は弟です。この弟が自分に謀反を起こしたのです。怒った義持は、義嗣を攻め、立てこもった建物もろとも焼き殺してしまいます。義満が、我が子を天皇にという野望は、これによって潰(つい)えました。
 義持は父・義満の皇室接近を嫌っていました。義満は、太上天皇の尊号をもらいたがっていました。義満の死後、宮廷からその宣下(せんげ)の勅使が来ると、義持は「そんな破格な尊号を頂いた臣下はいません」と言って返上しました。また、天皇の母となった義満夫人・日野康子が亡くなった時も、葬式は簡素なものとしました。義満が造った北山の別荘も、金閣寺等を残して取り払い、庭石も崩しています。こうして、義持は、日本人としてわきまえるべき節度を示し、武家のあるべき姿に立ち返りました。
 義持は、もう一つ義満の過ちを正しました。義満は明と国交を開きましたが、それは屈辱的な外交でした。義満は、明の皇帝から「日本国王」という称号を受けたのです。「王」は皇帝の下になるため、わが国はシナの册封(さくほう)体制に従属することになったのです。
 かつて、聖徳太子は隋の煬帝に対して対等の外交をし、自主独立の路線を取りました。それ以来守られてきたわが国の誇りを、義満は個人的な名誉と貿易の実利と引き換えに、地に落としたのです。しかし、息子の義持は、義満の外交を誤りと考えました。そして、義満の死後、今度は義持を「日本国王」とするという文書が明から届いた時、義持は、これを無視しました。それによって、わが国の国威は回復されたのです。
 こうした義持の功績によって、義満の過失は正され、足利将軍家はともかく15代まで続くことができました。
 しかし、皇室の権威は、足利尊氏が北朝を立てたことで相対化され、義満が太上天皇同然の振る舞いをしたことで大きく損なわれました。権威の低下は、下剋上の世を招きました。再び皇室が権威を回復するには、織田信長と豊臣秀吉という新しい英雄の出現を待たねばならなかったのです。

参考資料
・渡部昇一著『日本史から見た日本人・鎌倉篇』(祥伝社)

 次回に続く。

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