mixiユーザー(id:525191)

2021年01月31日10:18

152 view

仏教108〜明恵(続)、貞永式目と神仏の尊信

◆明恵(続き)

・思想
 1221年(承久3年)、明恵が48歳の時、承久の乱が起こった。この時、後鳥羽上皇方の兵が、栂尾の高山寺に逃れてきた。明恵は、彼らをかくまったため、北条氏の側にとらえられた。その際、明恵は、2年後に鎌倉幕府の三代執権となる北条泰時に対し、「救いを求める者は、今後も助けたい。それがいけないというのなら、私の首をはねよ」と言った。その態度の情け深く、また毅然としていることに、泰時は感心した。そして、後日、明恵のもとを訪れた。
 すると明恵は、承久の乱の処置について、泰時を諫めた。「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ死ねと言われても、天皇の命令には決して逆らってはいけない。それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。
 乱の後、北条氏は、天皇を代え、三上皇を島流しにした。国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいなかった。しかし、明恵は畏れず、為政者の泰時を叱り、日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭したのである。泰時も、もともと尊皇の心を持っていたので、明恵の言葉は痛く響くものがあったのだろう。以来、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになった。
 いったい仏教の僧侶である明恵がなぜ、わが国は天皇のものであり、泰時らの行為は理に背く振る舞いである、と諭したのだろうか。
 明恵は両親を幼くして亡くし、天涯孤独の身で仏教の道に入り、修行を重ね、徳の高い名僧となった。「山のはに われもいりなむ 月もいれ よなよなごとに またともとせむ」ーーこれは月を友として明恵が詠んだ歌の一つである。月を友とするというように、明恵は、自然の風物、身に触れるすべてのものに、深い情をもって接した。明恵は刈藻島(かるもじま)という島で行をしたことがあった。島から帰った後に、自然の豊かなその島が恋しくなって、手紙を書いた。宛名は「島殿」となっていた。使いの者が「いったい誰に、手紙を届ければよろしいのでしょうか」とたずねたところ、「『栂尾の明恵房のもとよりの文にて候』と島の真ん中で読み上げてきなさい」と答えたという。
 こうして自然と一つとなって暮らした明恵は、自然のままであることを大切にした。
 仏教には、王権を認め、国家の鎮護を祈るという教えがある。また明恵が修めた華厳経には、すべてをあるがままに肯定するという思想がある。こうした考え方は、「人はあるべきやうはと云、七文字を保つべきなり」という明恵の遺訓に表れている。弟子の喜海が記したと伝えられるこの言葉は、『明恵上人伝記』や『沙石集』では、「王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしくふるまうべきだ」と解釈されている。つまり、王とは天皇であり、臣とは天皇に仕える者、貴族や官僚や武士であり、民とは一般の庶民である。明恵は、天皇と臣下と庶民、それぞれが分を守って振る舞うことが、自然な姿だというのである。
 この考え方は、明恵の独創ではない。古代から我が国に受け継がれてきた考え方でもある。鎌倉時代にもそれが当然のこととして、人々に定着していたのである。それは、日本の国は、天照大神の子孫である皇室が治めることが、あるべき姿であると思われていたことが前提となっている。皇室の権威は神話に根差したものであり、文字が使用される前の時代から伝わっている神的かつ伝統的な権威である。日本人は、この国は皇室が治める国であり、各自が在るべきように振舞うことを、自然な姿として受け止め続けてきた。
 明恵は、このようなわが国の国柄と、日本人のあるべき姿を、泰時に説いて聞かたわけである。強大な武力を持つ権力者に、説教をするということは、並みの度胸ではできない。そこに明恵の精神力の強さや人格の高潔さがうかがわれる。
 明恵は、泰時に対し、「天下を治める立場の者一人が無欲になれば、世の中は治まる」という教訓を与えた。泰時はこれを肝に銘じて、実際の政治に生かした。泰時自身、「自分が天下を治めえたことは、ひとえに明恵上人の御恩である」と常々人に語った。自分の家の板塀が壊れて内部が見えるほどになっても気にせず、御家人たちが修理を申し出ても、泰時は無用の出費だと断った。裁判の処理も道理に適って明快だったので、武士の信望を集めた。
 承久の乱では朝廷から実質的に権力を奪った泰時だったが、三代執権になると、我が国の国柄の根本を損なわぬよう、朝廷の権威を侵さずに、武家政治を行うことに努めた。泰時は、人に与えること多く、自らおごることの少ない誠実な人間だった。善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むことはなかった。彼によって、頼朝以来の武家政治は基礎が確立された。そして、こうした泰時に、明恵は日本的宗教の指導者として、日本人及び日本国の為政者としてのあり方を教えたのである。

◆貞永式目と神仏の尊信
 
 三代執権、として北条泰時は武士が守るべきことを文書化し、武士に規範を与えた。その文書が1232年(貞永元年)に制定された関東御成敗式目(貞永式目)である。同じ年に、泰時の師・明恵は亡くなった。
 貞永式目は、武家の慣習と道理を成文化したもので、日常的な道徳、御家人の所領に関すること、守護・地頭の権利と義務、裁判、家族制度等を定めている。
 律令はシナから継受した法だったが、式目はわが国独自のものだった。武士という戦士の階級が政権を担った歴史は、シナや朝鮮には見られないものである。その武士が初めて日本の固有法をつくったのである。式目の第1条は、神社を崇敬することである。「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。然れば則ち、恒例の祭祀陵夷(りょうい)を致さず、如在の礼奠怠慢せしむることなかれ……」。第2条は、仏寺を興隆することである。「寺社異なりと雖(いえど)も、崇敬は之れ同じ。……」。すなわち、式目は、武士に信仰の大切さを示すことから始まっている。
 貞永式目は、室町幕府にも基本法典として用いられ、戦国大名の分国法にも影響を与えた。庶民には読み書きの手本として、数世紀にわたって活用され、日本人全体に親しまれた。その道徳の中に、神仏を共に尊べという事項がまず挙げられていたのである。
 こうして、仏教は神道とともに、日本人の道徳を形成するものとして、深く社会に定着した。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する